村から少し離れた場所にある森に、なんとも美しい姿をした妖が住んでいると俺達の間でまことしやかに囁かれていた。
この世のものとは思えないそいつに気に入られてしまえばお終い。生きて帰ってくることができないと、有名な話ではあった。
子守唄の代わりに聞かされた話は、一週間後に成人を迎える今でも鮮明に覚えている。
そうして、その日、心の隅に例の妖の姿を浮かべながら、その森の中に足を踏み入れた。










頬にできた切り傷に汗が入り込んで、鈍い痛みに襲われる。着物の袖で額に浮かんだ汗を拭ってはみるものの、あまり意味はないように思えた。
先ほどから変らないように見える光景は、本当に前に進んでいるのだろうかと己の感覚を鈍らされる。
森に入ったのは暁の頃だったというのに、今ではオレンジ色の太陽がかすかに辺りを照らすだけだ。長い時間彷徨っているというのに、一向に目当てのものに出会えない。諦めにも似たため息が出たのは無意識でのことだった。
妖の名を聞いたことはない。どんな容姿をしているのかさえ詳しく知らず、ただ死人のように白い肌をしていることだけは聞いていた。
語り継がれた話を一言一句間違えることなく言えるほどに聞かされたその話は、自分の幼少の頃より興味を惹かれるものであった。
村の男達は恐ろしい恐ろしいと口をそろえて言ってはいるが、実のところ皆一様にその妖に会ってみたいと思っている。
果たして、魂が抜け出てしまうほどの美人なのか、それとも死んでしまうくらいイイ体をした女なのか。酒の肴に話すその下種な内容は不愉快なものばかりであったが、年頃の青年を興奮させるのには十分すぎるくらいであった。
そうして、成人を迎える前の最後の我が儘であると森に足を踏み入れたのだが、どうにもその妖に会える気がしない。
それに、畑仕事をしているせいで土にまみれ泥臭い自分が気に入られるはずがなく、それを見ることができる可能性は限りなく低いと今更ながらにそんな否定的な考えが頭をよぎった。
もう帰ってしまおうかと足を止めると、獣道の向こうに人影が見えた。遠目なのでよくはわからないが、小綺麗な衣に身を包んだ童のようだ。
童もまた自分の存在に気付いたらしく、一度身を引いたかと思えば恐る恐るこちらに歩みより、そしてまたこちらも前に前にと足を動かした。
とんと近くまで来てみれば、その子どもの容姿が優れていることに気付いた。丁寧に手入れの行き届いた髪は長く、一つに結われている。一度も陽を浴びたことがないのではと思わせる白い肌は病的で、小さく丸い指にはささくれさえ見当たらなかった。
少しきつめの目をキョロキョロと動かして、狼狽しきっている童は口を開き、しかしすぐに閉じてしまった。困ったように眉をひそめて、これまた恐々と男の手を取り、甲に何事かを書いていく。
仙蔵、とそう書かれた気がした。はて何のことだろうかと首を傾げてみて暫く、それが童の名であると思い至る。お前の名前かと聞いてみれば、勢いよく首を縦に振った。
そんな風に話をしてみてわかったことは、どうやら彼が喋れないらしいこととこの森の中に住んでいるらしいことだ。
何故喋れないのか、一人で住んでいるのか、妖について知らないか。どの問いにも曖昧に笑ってみせるだけで、しかし妖については黒曜の瞳を落ち着きなく左右に動かしていた。
翌日、どうにも先日の童が忘れられず、もう一度森に足を運んだ。今度は森に入って一刻もたたないうちに仙蔵と遭遇した。
昨日と色違いの着物に身を包み、あどけなさの残る笑みについこちらも笑みを浮かべてしまう。不思議な魅力をもった童だ。
そうして不思議な逢い引きは三日、四日と続き五日目になってある異変に気付く。
どうにも仙蔵が急激に成長しているようなのである。
初めに会った頃はまだ腹のあたりまでしかなかった筈なのに、今では胸にまで背が届いている。声なし童であったはずが、か細くすれた声が出るようになっていた。
次の日に森に行けば、男と変わらぬ背丈の仙蔵が待っていた。あどけなさはどこに行ったのか、いかにも女受けしそうな好青年の顔立ちと艶のある声。
一体どうしたのかと問えば、一度躊躇ったあとに辺りを見渡して声をひそめて曰く。
この森には男の言う通り、美しい容貌の妖が住んでいる。名は仙蔵も知らないらしく、森の主である存在のため主様と呼んでいるらしい。仙蔵が赤ん坊の頃森に捨てられていたのをその主に拾われ、今では主の下で丁稚として働いている。男と出会ったあの日は、言い付けの草を取りに来ていたそうだ。
更に続けて言う。私はあなたとあの日出会ったとき、高鳴る胸を押さえられませんでした。最初は初めて見る人間に興奮しているだけかと思い放っておいたのですが、動悸は激しくなる一方であなたのことが頭から離れない。これは何かの病かと不安に思い主様に聞いてみたところ、なんと私があなたに恋をしたと言うではないか。半信半疑ではあったがどれだけ考えてみても、主様の言葉が一番しっくりくる。しかしこんなのは初めてのことであり、人間に会ったことさえないとなれば私だけではどうしようもできない。主様にお知恵を拝借したところ、この想いを成就させねばならぬとのこと。それにはまずあなたと同じ背格好になる必要があると、主様のお力をお借りしました。それから声がなくては不便であろうと、ここらで一番綺麗な声であると有名な女の声も頂きました。
そう一思いに話して、仙蔵は頭を下げるとどうぞ私をめとってくれなどと言う。しかし男はすぐに首を横に振った。
とんでもないことである。確かにお前は綺麗な姿をしており、俺もお前を見ていると心臓が常より早く打つ。しかし俺もお前も男であり、明日成人を迎える俺には既に決まった嫁がいる。大変残念なことではあるが、どうか容赦願えないだろうか。
男の言葉に実に残念そうに俯いた。成る程、あなたの言い分もごもっともです。ならば最後にもう一度機会を頂けないでしょうか。明日の成人の儀、つまり婚礼の前に参上つかまつります。その際に最後のお返事頂きたい。
目尻に涙を湛え、声を震わせながら言うものだから男は頷く他なかった。
それに嬉しそうに笑んだ仙蔵が男の手をとる。丁稚にしては小綺麗な手は、かさついた男の手よりも艶やかに滑らかであった。





 

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