「あっれー?」
いつもなら左に回せば固い手応えのある少し古くなった鍵が、今日はカコンと乾いた音をたててすんなりと回った。鍵がかかってない。締め忘れ?そんなことはないと思う。多分。
泥棒に入られたのかもしれない。ここのマンションちょっと人通りすくねーから…
なるだけ音をたてないように静かにドアを開ければ、そこに並べられた小さな二足のパンプスに俺はほっと胸をなで下ろした。なーんだ。名前ちんか。
今日は朝から友達と遊びに行くって言ってたから、てっきりまだ帰ってないのだと思っていた。帰ったのならメールでも電話でもして伝えておいてくれればよかったのに。
別にそうされたからっていって俺の行動が大きく変わる訳じゃないけど、でも名前ちんが家に居るってわかってたらきっと学校がおわったらすぐに帰ってきてたし、帰り道も多分うきうきしてた。
「名前ちーーん、ただいまー」
「……………………。」
あれ、返事がない。もしかして名前ちん鍵かけるの忘れて行ったのかな…
自分は散々俺に注意するくせに、結局名前ちんが一番不用心だ。
リビングに続くドアを開けてとりあえずキッチンに向かう。
そして何気なく目をやったリビングに俺は自分の目を疑った。
「な、にこれ……」
絨毯にぶちまけられた鞄の中身、テーブルに散乱した何のものかわからない大量の薬の殻や蓋が開けっ放しの薬のボトル。
それに至っては幾つか倒れ、中身がテーブルどころか絨毯やフローリングにまで散っている。
ただごとじゃない。
いったい何が…、そう考えて紫原ははっと思い出した。
それはつい数日前、いつものように二人でテレビを見ていたときのことだった。
「へー…薬の飲みすぎって身体にわるいんだね」
「んー、赤ちんがさ、薬飲みすぎたら死ぬぞって言ってた」
「え、まじ?怖っ!」
「名前ちん気をつけてよ。名前ちん訳わかんねー薬ばっか飲んでるし、」
「あれはサプリメントだから大丈夫だよー」
「よくわかんねーけど気をつけてね」
「はーい」
なんていう会話をしたばかりだ。
嫌な予感がひしひしと現実味を帯びてくる。
いや、名前ちんに限って、そんなまさか嘘でしょ…?
「っ、名前!」
さあっ、と顔どころか全身から血の気が引いていくのを感じながら、紫原は慌てて家中名前を探しまわる。
寝室、ベランダ、クローゼット、トイレ、
そして洗面所のドアを開けると床には脱ぎ捨てられた名前の服が散らばり、風呂場の電気は着いていた。
「名前っ!」
足がもつれそうになりながら、風呂場に倒れ込むようにドアをあけ、目の前に広がった光景に思わず息をのんだ。
「っ、……う、そ…」
そこにはたしかに名前がいた。
しかし、湯気の上がっていない乳白色の水に彼女は全身浸かりきり、本来開いているはずの瞳はぴったりと閉じられている。
一気に頭の中が真っ白になると同時に、視界がぼやけてきて目の前がはっきりみえなくなる。
「…は、なんで、」
一歩前に踏み出そうとした俺の足はとうとう力が入らなくなって、風呂場に崩れ落ちる。それでも名前の姿を確認したくて、ずりずりと腕の力だけで身体を動かし浴槽に寄り添った。
涙で前がはっきりみえないけど、化粧を落としていないのか名前の顔はまるで眠っているように見えるくらい明るく色づいていて、少し笑っているようにも見えるその顔に俺は手の甲で優しくそっと触れる。
風呂のおかげなのか、桃色の頬は温かかった。
「………っ、」
どうしてこうする前に俺に相談してくれなかったのか、一番近くにいたのは俺なのに。
俺に不満があったならいってくれればよかったのに、本気で名前が嫌がるなら俺は全力で直したのに。
普段から周囲のいろんな人によく子供っぽいとは言われていたけれど、俺はそんなに頼りなかったのか。
思いは通じ合っていると、2人の間に隠し事なんてないとおもっていたのは自分だけだったのか。
途端に自分が酷く情けなくなった。
「っ、……う、名前っ、」
後悔しても後悔してもたりない。
後悔しても名前はもう目を開くことはないのだ。戻ってこないのだ。
さっきからぼたぼたと溢れて止まない涙が、湯船に、名前の顔に、大粒の雨のように降り注ぐ。
「っ、う〜…名前ー、」
目ぇあけてよぉ…、
動くのは、俺が触っている頬と口、湯船で揺れる髪、そしてまぶた、だけ。
……え、まぶた?
「─────…んー…ぁ、れ、あつし…?…ぉあよー、」
「!!!」
「ってことが一昨日あってさー、敦まだ私と口利いてくれないんだけどどうしたらいい?」
『お前…最低だな』
「やっぱり私が最低なの、」
昨日今日連絡した友達数人にもおんなじセリフをいわれた
まあ、確かに私がサプリメントを整理していたところに鞄の紐に躓いてコケてリビングをめちゃくちゃにし、更に片付けがめんどくさくなって放置したまま風呂に入って、またさらにそこで寝てしまったのはまあ(少々)悪かったかなとは思っている。
だから、決して反省していない訳じゃない、し。
とっても心配させてしまった敦には本当に申し訳なく思っている。
『紛らわしいだろう。そんなの僕だって勘違いするさ』
「……そう?…でさ、話の続きなんだけど、敦ってば口きいてくれないくせにめっちゃ過保護になっちゃってさー…それも含めてどうしたらいい?」
『しばらく一日中一緒にいたらいいんじゃないか?』
「んんうー………そだ、征十郎、遊びにきてよ。うちに。明日あたり」
『いや、お前らと違って僕は忙しいから、遠慮しておくよ。』
「うーそーだー!」
『ふ、……まあ、お前はとりあえず敦を大事にしろよ。あいつは今回のことで相当まいっただろうし、』
「んー、」
『ああ、あと、敦に口をきいてほしかったら自分から気持ちを行動で表してみたらどうだ?あいつは結構単純なやつだから、……とまあ、僕は当事者じゃないからあくまでほんの提案にしかすぎないがな。それじゃ、───』
「…………………。」
征十郎は一方的に、早口に、言うこといって早々に通話を切ってしまった。どう考えても「忙しい」というのは嘘だ。きっと奴は面倒事に介入したくないだけなのだ。
薄情者、
ブラックアウトしてしまった携帯に悪態をついて、私は大人しくそれをポケットにしまう。
「……がんばれ私」
まあとりあえず、征十郎に言われたことを早速実践してみようと思う私は、背を預けていたドアを思い切ってあけた。