かたん、と小さな物音がしたので、なまえはそちらへ視線を遣った。長い廊下、十数歩ほど先で床に落ちた書簡を拾い上げようとしていたのは、他でもないなまえの夫、練紅明その人だった。眠そうに目を擦りながらも書簡を拾い上げれば、もう片方の手にした書簡の山からまた一つ、転がり落ちてしまう。自分の夫ながらも、「何てどんくさい人だ」などと考えながら、長い裾を引き摺って彼の元へ足を運ぶ。あと三歩のところでなまえに気付いた紅明は、「おや」と情けないような声を出した。軍議の折や戦闘時にはきりっとした表情を見せるくせに、それ以外の時はどうにも不甲斐ない。目尻はゆるりと下がっているし、姿勢だって猫背気味だ。彼がジンに選ばれた金属器使いだなどとは、誰もが俄かには信じられないだろう。

「これはこれは、恥ずかしいところをお見せしてしまいまして」
「お一人でこんなにたくさんの書簡を運ぶだなんて。何のための忠雲ですか」

呆れながらも紅明の手にした書簡の山を半分ほど奪い取る。何か言いたげになまえをじろりと見たが、気付かないふりをした。それにしたって本当に忠雲は何をしているのだろうか。主である紅明には(妻であるなまえを差し置いて!)いつも付きっ切りだというのに。随分と遅い時間だから、湯浴みでもしているのかもしれない。まあ、忠雲とて人間だ。日がな一日紅明にべったりくっついているというのは、なまえの勝手な思い込みという可能性もある。書簡の量が減って幾分か持ちやすくなったのか、紅明の表情は先程の気怠そうな様子とは打って変わって、ややすっきりとした表情を浮かべていた。

「ところで、この書簡はどこへ運ぶんです?お部屋ですか?」
「まさか。書庫ですよ。少々重いでしょうが、宜しくお願いしますね」

心底申し訳ないと思っているのだろう、眉尻が平生よりも下がっている。しかしなまえは紅明の妻だ。少しくらい遠慮せずに頼ってくれたって、罰は当たらないだろう。何やら腑に落ちない思いをしながら、宮中の書庫へと二人肩を並べて向かう。普段からこの二人の間にはあまり会話らしい会話はないが、どうにも今日は本当に会話がない。すれ違う人間もおらず、微かに気味の悪さも感じたが、夜更けゆえに仕方がないと自分を納得させて、黙々と目的地へ歩を進めた。





「すみませんね、なまえ」
「謝らないでくださいな。それに紅明さまお一人じゃ、倍はかかっていたでしょう?」
「酷い言い草ですねえ」

燭台の明かりがゆらゆらと不規則に揺れる中、定位置へと書簡を収めていく。炎に照らされる紅明の横顔は美しかったが、どこか不気味でもあった。表情の変化が少ない方だが、些か無表情すぎやしないだろうか。何か気に障ることでもしてしまったのだろうかと、なまえが思案顔を浮かべていれば、ふと書庫の外から声が聞こえた。誰か来るのだろうか。恐らく見回りの兵士だろうが、出来れば紅玉や白瑛など、身内に来てほしい。今の紅明と二人きりというのは、どうにも耐え難く感じた。その時だった。

「先程奥方さまが書庫へ入っていったと」
「なまえが?こんな時間に何をしているんでしょう」
「……え?」

外から聞こえたのは紛れもなく忠雲と紅明の声だった。だがしかし、紅明は今、自分の隣で書簡を収納している。なのになぜ外で紅明の声がするのだろうか。徐々に近づいてくる足音に、なまえの頭の中はぐるぐると混乱するばかりだ。ふと隣に立つ紅明を見遣ると、彼は三日月のように目を細め、ニッタリと笑った。瞬間、なまえの脳は警笛を鳴らす。違う、この男は紅明ではない。自分の知る紅明は、こんな笑い方をする人間ではない。サッと血の気が引き、本物の紅明と忠雲がいるであろう出口へ向かってひた走る。長い裾が邪魔で仕方がない。手を伸ばせば外へ出られる寸前、するりと腰に回される手、閉まる扉、消える蝋燭。その向こうで驚いたように目を見開く紅明を最後に映し、なまえの視界は閉ざされた。

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