プレゼント | ナノ


 暇さえあればハーモニカ、ハーモニカ。でもちっともうまくならない。この頃はアパート会談のしたでハーモニカをするのが趣味らしい。今日も階段の下で下手なハーモニカを吹いている。こんな時に呑気なものだ、もし敵に見つかったらどうするんだ、と思いつつもヒロトを信用しきっている部分もあった。ヒロトが今日外に出るなと言えば、その日は絶対の確立でこのアパートの家の近くに銃声が聞こえるし、その道を通るなと言えば、その道には必ず敵が通る。本当に不思議なものだ。
 今日はヒロトの演奏を聴いてやろう。
 外に出てヒロトの背中を見下ろした。熱心にハーモニカを鳴らしている。ふと、ヒロトの背中の傷に目が入った。もしかして、夜、あの背中が痛かったのだろうか。
「ヒーロト。」
「あ、名前。どう?少しはうまくなった?」
「まあ聴いてたけど…うまくならないね。」
「そうかな…。俺は少しうまくなったと思ったんだけどな…」
 なんでか心許なくなったので、部屋から銃を持ってきてヒロトの隣に腰を下ろした。ヒロトはぐちゃぐちゃにハーモニカを吹いている。本当に、もう少しでいいからうまくなってほしい、これじゃ耳が痛くなる。「下手だなー」わたしが言うとヒロトはハーモニカを吹くのを一旦止めて、頭を掻いた。私は銃を抱えて俯き、目を閉じた。ハーモニカの汚い音が耳に響く。ドレミ、ドレミ、ソミレド、レミレ、チューリップだ。でも汚くて解りにくい。ドとレが一緒に出たり、ソなのにファだったり。「下手。」
「…なんだよ、じゃあ名前もやってみなよ。」
「いいよ。」
 ヒロトからハーモニカを受け取って同じようにチューリップを吹いた。こんな簡単なものだったか。ヒロトよりも遥かに上手いといえるだろう。ヒロトは目を輝かせていた。「すごいな」「どこが」「だって、上手い」「ヒロトよりはね。でもこんなに簡単な曲…」「上手、上手、」素直に世路紺でいいのだろう。自然と嬉しくなって頬が綻んだ。
「おれも上手くなろ。」
と、ヒロトは再びハーモニカに唇を付けて、すぐ離した。
「あ、部屋に行こう。外より中の方が落ち着くや」
「へ?あ、うん。」
 ヒロトの後ろをくっついて部屋に戻ると、ヒロトはハーモニカを吹かずにベッドに座った。
「名前、眠たいんじゃないの?」
「どうして?」
「だってさっき眠そうにしてたから。」
 ああ、俯いたことか。
 わたしが返事もしないでベッドに横になると、ヒロトも横になって私に体をピッタリとくっつけてきた。私はヒロトに背を向けると、少し小さい声でヒロトは、おやすみ、と言う声が私の中で響いた。「おやすみ。」




 私が通っていた軍の基地は大きいものだった。軍の基地の本部に近い位置にあったので、それなりに設備も整っていたし、素人の私達に軍人の知識、技術を教える教官達もそれなりの力のある、腕を持った教官達がたくさんいた。両親には悪いけど、学校で勉強するよりこちらの方で勉強をしていたほうが遥かに楽しかった。このときはまだ、戦争なんていう単語を知っていても、あまりうまく理解できていない部分もあったんだろう。今になって、理解して、もう少し勉強してればよかった、なんて後悔している。
 一週間泊り込み、一週間が終われば次の週は休み、そんな感じで過ごしていた。私の選んだコースはさほど難しいことをするわけでもなく、ただ銃を撃つ訓練と少しだけの勉強をする、そんなコースだった。同じ部屋の佐久間と(あと誰か居た気がするけど忘れてしまった)私は、皆から噂をされる関係ではなかったが、同じ部屋だったために色々なことを言われたりしていた。でもそれが嫌だとは思ったことは一度もなかった。
 基地には食堂と訓練場と地下の図書室が主に使われていた。その中でも地下図書室が私は大好きだった。元々本を読むのが好きだから、という理由もあるし、一人になれるから、という理由もあった。それに地下図書室にいたおかげで、命が助かった。
 今の季節は、夏だ。太陽が眩しくて、暑いと愚痴を漏らす季節だ。だけど、今の空は暗くて雨が降る。道路は暑さと二酸化炭素で歪まない。蝉の声が聞こえない。プールがない。プールで遊ぶ子どもの声が聞こえない。見えるのは死体。死を感じる。銃声が聞こえる。泣く声が聞こえる。嗚咽が聞こえる。泣き叫ぶ声が聞こえる。目を閉じれば、一気に全てを感じる、それに、慣れてしまった。

 隣のヒロトは身を小さくしてすやすやと気持ちよさそうに寝ていた。身を起こして、銃を抱える。銃を抱えていると心が落ち着いて安心するから、私はこれからもずっと銃を抱えていないと不安で死んでしまうんではないか、と思う。暗い空を見上げた。いつものような静けさではなくて、静寂、という言葉が似合っているだろう。しん、と静かだ。
 私なんて、ただの平凡な人間だし、何をするにしたって普通だし、満足といえるものを感じたことがない。でもひとつだけ続けていこうと思うものがある。前の生活なら当たり前になっていたことだ。今になってはそれさえ難しいことだ。
 拳銃がほしくなった。散弾銃を窓辺に置きヒロトに寄り添って布団を被り、目を閉じる。脳裏には基地で学んだこと、教官の顔、佐久間の顔が浮かんでくる。浮かんで、消えた。

 なんてことのない日々が続いた。ヒロトは相変わらずハーモニカを吹いている。わたしも相変わらず撃って、ヒロトのハーモニカを聴いて、の、毎日で。あと、セックスもちょっとだけ慣れてきた。
「今日は雪が降りそうだ。」
 ヒロトが空を見上げて言う。私は先日奪った銃の手入れをしていた。手入れといっても本格的なものではない、ただ、部分を拭くだけだ。「雪?なんで?いきなりだね」「雲見てたらそんな気がして。」「へえ」ヒロトが予言するときはいつも突然だ。“予言”したことがない私はよく実感できないが、すごい力なんだろう。ヒロトの“予言”が、誰でも頷ける理由だから、私も疑うことなく、伺いながら頷ける。
「確かに、ちょっと寒いかも」
「ストーブあったらいいのにね。」
「そーだねー」
 今の季節は、たしか夏だ。(いつも雲行きが怪しくて太陽の光を感じないから季節の感覚がなくなってしまった。)「雪積もったら外出ようよ。」と私がいうと、ヒロトは小さい子を見守るような目をして、いいよ、と言った。窓際に肘をつくと、ヒロトも隣に座り、私と同じように肘をついた。
「寒さには人肌っていうよね?」
「いうね。でもまだすごく寒くないから人肌はいらないかな。」
「…なんか、名前おれの扱いひどくなってきてる。」
「そう?」
「そうだよ。」
 私の方からヒロトに近付くと、ヒロトは「え?」と、声を漏らしながら私を見る。(のが解った)
「なに?」
「いや、名前から近付いてくるの珍しいなって…。」
 たまにはね。私の小さな発言に、ヒロトはうれしいうれしいの私の肩に頭を預ける。わかるように、ヒロトの方がわたしより大きいんだからこの体制はキツいだろう。肩を上げてヒロトの頭を追い払うと、ヒロトはムッとした表情で私を見下ろす。私はヒロトの方をチラリと見て、
「今日はいつもより外が静かだね。」
と言うと、ヒロトは視線を外に戻して、そうだね、と返事をした。ヒロトは前のめりになった。私はヒロトの背中に目が入った。やはり、服からはみ出ている傷が痛々しい。
「背中触ってもいい?」
 自然と言っていた。ヒロトは驚いた顔を私に見せながらも、
「……いいよ。」と、ヒロトは再び前を向く。
 私は後ろに回って、服の上から傷の線をなぞっていく。ヒロトはまだ前を向いてなんの反応も起こさない、痛くはなさそうだ。なんともいえない、傷の痕。しばらくなぞっていると、ヒロトの耳が急に赤くなり始める。「あ、ごめん、痛い?」「痛くはないよ、ただ、恥ずかしいだけ。」恥ずかしいのか、そうか、そうなんだ。意地悪、というか、悪戯心が芽生えてしまったので、服を上げて傷の痕をなぞっていくと、意地悪も悪戯の心も治り、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。変な傷の痕すぎて、私はただ、変なの、と思うしか他なかった。傷は背中全体といっていいほど、大きなものだ。近くでみると、また違う。
 服を下ろし、前にヒロトが私にしたように私もヒロトの背中を抱きすくめた。ヒロトは一瞬肩を上げ、停止し、私の手を握ってきた。
「…は、ずかしいな。」
「ヒロトも私にこうしたじゃん。」
「したけど…」
 ヒロトは続きの言葉が出ないようで、息を吐いて、静かになった。私の手を握っているヒロトの手はとても冷たかった。「ハーモニカ吹こうかな。」とヒロトが言うので、私の後ろにあったハーモニカをヒロトを渡すと、ヒロトはこちらを向いて私を抱きすくめた。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。」
「さみしいの?」
「うーん、そんなところかな。」
 ヒロトの背中に中途半端に腕を回す。
 怖くなった。理由も理屈もないけど、怖くなった。私はヒロトのように危険を予知できないし、(ヒロトが予知をしているとは絶対と言えないけど)だから、どうすれば恐怖を取り除くことができるのかわからない。その恐怖に怯えながら生きていかなければならない。ヒロトが今何もいわないのは、きっとわたしが感じている恐怖を理解しているからだろう。
 ヒロトの体は冷たい。けど温かい。窓の外を覗けば、白くて神秘的な雪がしんしんと降っている。辺りも段々と白くなってきている。
「名前、好きだよ。」
 中身の無い台詞のようだった、そういう風に聞こえた。吐き捨てるようにヒロトは言って、ゴミを放り投げて捨てるように台詞を言われたような感じがした。私も返事をしようと思ったが、うまい台詞が見つからない。
 外は静寂、大声を出したら世界中に響き渡りそうだ。
「そうなんだ。」

 朝起きたら、隣にいたはずのヒロトがいなくなっていた。急いで机の上を見る。鞄はなくて、ハーモニカはある。ということは食料調達にいった。と、ばかり思っていた。


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