01


ナマエ・ミョウジはアメリカの広大な森の中に佇んでいた。...道に迷って途方にくれていたのである。
「ローレライ、何か見える?」
空を仰いで彼女は声を上げた。頭上ではナマエの持霊であるローレライが辺りを見回している。
『...見渡す限りの森が見えるわ。』
ため息をつきながら、ローレライはそれだけ言うとナマエの傍に降りて来た。

方向音痴ではないはずである。地図も持っているし、少し前まで歩いていた道と、これから歩くはずだった道はきちんとわかっているのだ。ビル街ならともかく、森というのがこうも同じような風景だったとは知らなかった。というより、迷うまでは初めて訪れた土地の目新しさに木や鳥やその他いろいろなものを見て楽しみながら歩いていたのだが、いざ迷ってみるとどこも同じに見えてしまうのだ。
それもこれも、2人の意見が完全に一致して「ちょっと道を外れるけど、この先に湖があるらしいから、そこで休憩がてら一曲」ということになったのが全ての始まりだ。この辺りに詳しい人ならば、観光客がそんな無謀なことをするから道に迷うんだ。おまけに遭難するやつまでいる。探すこっちの身にもなってみろ!などと思ったに違いない。
湖は道から外れてすぐに見つかった。遊歩道からそれほど離れていないのに人間の手が入っていない自然そのものの姿である。
水の中に住む音楽の精霊であるローレライはまとまった水量に嬉しそうな様子で軽く水に潜り、その後、ナマエがヴァイオリンで伴奏をし、ローレライがその自慢の喉を披露した。曲目はもちろん、ドイツで知らぬ者のいない程の名曲、『ローレライ』である。
ローレライは自分のことを歌ったこの歌が昔からお気に入りで、物心ついた頃からずっとローレライの側で過ごしているナマエにもそれは言える。
一息ついてさあ遊歩道に戻ろう、と歩き始めたはいいのだが、いつまで経っても元の道に出くわさず、今に至るというわけだ。
音楽の体現者と言ってもいい2人である。道を外れて美しい湖畔で誰にも聴かれずとも満足の行く演奏をし、その結果として迷ってしまったことに後悔はない。しかし日も傾きかけてきた。もともと半日で人里に戻るはずの軽いハイキングである。まとまった食料など持ってきていないし、まして晩を明かす装備など持ち合わせているはずがない。もちろん携帯電話は圏外である。先行きに不安が見えたとしても不思議ではない。

「せめて人が通ればいいんだけど...地元のハンターとか。」
『何にしても早く何とかしないとね...私はともかく、あなたは困るでしょ。』
「困るどころじゃないわ...、え、ローレライ、あそこ木が途切れてるわ。」
2人は話しながらも歩いていたのだが、もう少し先で地面に直接日が差しているのが見えた。先程ローレライが樹上から見渡した時には木々の高さや角度が悪く見えなかったのだろう。
『遊歩道かしら?』
ローレライもナマエも、疑問文という形はあるもののほぼ確実だと、というよりそうであって欲しいという思いが先に出てしまっていた。

――が。
日差しに行き着いた2人は息を飲んだ。
2人の目の前で、いきなり地面がなくなっていたのだ。
その崖はまさに断崖という言葉がぴったりで、遥か下には早春の雪解けで水量の増えた、見るからに冷たそうな川の流れが見える。
「......」
『......』
「...川なんて地図で近くにあったかしら...?」
眼前の光景への驚きがひと段落したところでナマエが口を開いた。
『遊歩道の周辺には、少なくとも無かったと思うわよ。』
揃って地図を覗き込む。そこには3本の青い線が描かれていたが、そのどれも彼女達が元々歩くはずだったルートとは重なっていない。
『遊歩道から1番近くて、私達が道を外れた方向からするとこの川だけど。』
「川のどの辺りなのかっていうのが問題よね...ねえ、ちょっと休憩しない?歩き疲れてきちゃったわ。それに、さっきからやけに暑いもの。たまの運動なんてやっぱりするものじゃな...」
ふと今来た森の方を振り返ったナマエの声が不自然に途切れた。そして息を飲む音。
『ナマエ...、!?』
それに振り返ったローレライも同じく息を飲む。


明らかにそれは、森の中にあって異質だった。赤い塊。炎の塊。ナマエの感じた暑さは、彼女自身の内からくるものではなかった。

その塊は不思議なことに辺りを燃やしてはいなかった。しかし熱は伝わってくる。そうーーまるで、魂すら燃やし尽くされてしまいそうな熱が。
「な、に...」
ナマエもローレライも、その圧倒的な、圧倒的すぎて呼吸すらままならない熱と力になす術もなくその場に縫いとめられたかのように微動だにすることができなかった。

赤い塊は人のような形をしていた。人と言っても、頭、胴体、腕、脚がありそれが動物というよりは人間の形に近いというだけだが。シャーマンであるナマエも、精霊であるローレライも、この他を圧する存在が精霊である、しかも想像を絶するほど強大な精霊であるということは理解できた。ーーと、その赤い精霊の掌に小さく人影、これはまさしく人の影だった、が見えた。黒く長い髪と白いマントのような服をはためかせている。
その人物は、紛れもなくナマエとローレライを見ている。...見られている。こんなに暴力的なまでの力をもつ精霊と共にある人間に。
ナマエの背に伝う汗は、もはや赤い精霊の放つ熱によるものなのか、それとも魂すら焼き尽くされそうな言いようもない恐怖からくる冷や汗なのかわからなかった。

掌に乗っている人間が口を開くのが見えた。ほのかに笑っているようにも。
「君達だよね、さっき演奏していたのは。」
それは疑問ではなく確信だった。
危害を加えられたわけではない。ただ事実を指摘されただけだというのに、ナマエとローレライは同時に、こんなにも熱いというのに魂の芯まで凍りつくような戦慄を感じた。まだ、身体は動かない。言葉も出ない。
「僕の名前はハオ。こっちが、持霊のスピリット・オブ・ファイア。ーーああ、心配しないでいいよ。すぐに終わる。」
先ほど感じた戦慄の原因がわかった。ハオと名乗った男の目は、こちらを見ているのにナマエ達のことなど見ていない。目に入らないほどのものなのだ。

感覚すら失っていたナマエの体が、僅かに後ずさった。理性によるものなどではない。本能的な防衛行動である。

「君達の音楽はいいね。嫌いじゃないよ。時機がよければ仲間に入れてやってもよかった程だ。実際、特に君の心の在り方はこちらに来るに相応しい。」

ハオは射抜くように、それでいて興味もなさそうにナマエを見やって言う。

「ただ...運が悪かったね。僕のスピリット・オブ・ファイアが腹を空かせてるんだ。だからさ、君達2人の魂を頂くことにしたよ。」

その瞬間、戦慄は混じり気のない恐怖へと変化した。ナマエは無意識に後ずさり、少しでもハオとその炎の精霊から逃れようとする。ーー後ろが崖だなどということはもはや思考から消え去っていた。

「ほら、言っただろう、すぐに終わるって。一瞬、それだけさ。僕と僕のスピリット・オブ・ファイアが君達の魂を綺麗に消し去ってあげるよ。」

スピリット・オブ・ファイアが手を伸ばす。それと同時に、ナマエの足が後ろに大きく後ずさってーー


「え、っ...」
ぐらりと、ナマエの体が傾いで下へと沈んでいく。
後ずさったナマエの足は地面を踏まなかった。崖の淵へと足を踏み出すことになったナマエはなす術もなく重力に引かれて崖の下へと落ちていく。今まで立っていた場所と赤い精霊が一瞬にして上へ遠ざかっていく。

ナマエ・ミョウジは、悲鳴すら出せないまま断崖から遥か下を流れる冷たい流れへと真っ逆さまに吸い込まれていった。


***


『ナマエ!!』
ナマエの落下によって恐怖から解き放たれたローレライは、目にも留まらぬ速さで同じように崖から身を翻してナマエを追った。恐怖に目を見開いているナマエが見える。
ナマエに追いつき、その下に回り込んだローレライは、凄まじい速さで近づいてくる水面に向かって手をかざした。彼女は水に縁のある精霊である。本質としては音楽の精なので水への干渉力は高いとは言えないが、それでも多少は水を操ることができる。

近づく水面が突然せり上がる。水の柱が伸び、ナマエを受け止めるようにして包み込み、そのまま水の中へ引き込んでゆく。早春の身を切るように冷たい水の中へとーー


スピリット・オブ・ファイアが伸ばしかけた腕を止める。もう片方の腕の先、掌の上にはハオが呆れたような諦めたような顔をして立っていた。
「まあ、追ってもいいんだけどね。面倒だ。...命拾いをしたね。...拾えているかどうかは分からないけれど。」
そう呟くとハオは不敵な笑みを浮かべてその場に背を向けた。

20131015

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