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「俺はソファーで寝るから、ベッド使え」
タオルケットを持ってベッドを指さす俺に、高嶺は戸惑いをみせた。
「でも僕……何もしてない……」
まだ言ってんのか。俺は聞こえない程度にため息を吐く。
「言っただろ。そんなつもりで連れて来たわけじゃない」
「けど、」
「しなくていいから」
食い下がる高嶺に少し強めに言ってやれば、顔を顰めて俯いた。やっと納得したか。そう思ったのも束の間。
「……なら、そっち」
高嶺はソファーを控えめに指差す。
「僕が、そっち」
客用の布団なんて元よりなくて、ソファーにタオルケットという簡易寝床。そんな所に高嶺を寝かせて自分はベッドなんて、大人の沽券に関わる。
自慢じゃないが俺はどこでも寝れるし。
「客をこんな所で寝かせるわけにはいかない」
「でも僕、……何も……」
いまだに諦めない高嶺に、矢継ぎ早に言った。
「いいんだ、何もしなくて。する必要ない。大人の矜持保つと思って、子供らしく甘えろ。そうしてくれないと俺も寝れない」
俺は壁に掛けた時計を見上げる。黒いむき出しの文字盤に暗闇で光る白の指針と英数字が刻まれた四角い蓄光時計は、もうすぐ日が変わる事を知らせていた。
不服がある。
そう顔に書きながら、制服で寝かせるわけにいかないと貸した俺のスウェットを着て、高嶺はおとなしくベッドに入ってくれた。
一連の高嶺とのやり取りと仕事の疲れがうまい具合に重なったのか。明日の予定をあれこれ思い浮かべて殆ど答えの出ない内に、俺は寝難いレザーのソファすら羽毛布団の寝心地のように直ぐさま夢に誘われた。
いつもより深い眠りだった。
夢すら見なくて、時間の流れは一瞬に凝縮したように過ぎ、今地震が起こっても気付かないくらいの深い眠り。
そんな眠りから一発で目覚めさせたのは、絶叫に近い叫び声だった。
ぐちゃぐちゃに毛布を乱れさせ、ベッドの上で手足をバタつかせ暴れている。
眠りに就いていた頭ではいまいち状況が呑み込めなかったが、尋常じゃない状態に、暗闇の中で宙を暴れる手を掴んだ。
「おい、高嶺っ、どうし……」
掴んだ手が振り払われる。正しくは振りほどかれた。
「やっ、やだ! やめっ……やだあー!!」
瞼は開かれている。だけど涙を溜めたその瞳は怯えに覆われて、俺を捉えていない。
汗が酷い。呼吸も荒くて、ひきつけを起こし始めていた。
「高嶺! しっかりしろ! 高嶺!! 高嶺!!」
俺は高嶺の上に乗り、腕と足を俺のでもって押さつけ名前を叫んだ。
そこでピタリと動きが止まる。
正気に戻ったのか虚無を見ていた瞳が正気を宿し、ゆらゆら彷徨ってから俺を捉えた。
「……と、……さん」
そう一言溢し、高嶺は気を失った。
◇
「申し訳ありませんでした」
朝の職員室。
窓際にある教頭の机の前で、机の上にある観葉植物と共に俺は陽光を浴びながら二十五度を作っていた。
あの後気を失ったまま穏やかな寝息をたて始めた高嶺とは逆に、俺の目は冴えまくり、全く眠りに就けそうになかった。
どうせ寝れないなら。と教科書を開き授業の予習をやり始めたのだが。
文字列に睡魔が誘発されたらしく、いつの間にか眠っていて、気付いた時には出勤時間をゆうに過ぎていたのだ。
「初めてだし、授業に影響なかったから大目に見るけど、以後このような事がないようにね」
俺と観葉植物を照らす陽光は、怒りに数本の毛を逆立てる教頭のバーコード頭も光らせる。
あまりにも見事な状態に凝視してしそうだから、俺は頭を一層深く下げた。
「朝から災難だったね」
自分の机に戻ると、斜め向かいの席から声をかけられた。共に一年の国語を受け持つ近藤先生。緩くオールバックにした髪に白髪が混じる、笑い皺の深い五十代半ばの先生だ。
今の学校に赴任した頃から色々と面倒をみてくれて、いつも助けられていた。
「飲みすぎた?」
「いえ、単なる寝坊ですよ」
俺の返答に珍しいね、と近藤先生は笑みを浮かべた。
「ところで、高嶺蛍という生徒知ってますか?」
「……高嶺?」
俺より長くこの学校に勤務して学年主任も務めてる近藤先生なら、あるいは知ってるかとも思ったのだけど。
少し考えた後に、近藤先生は聞いたことないなあと首を振った。
「その子がどうかした?」
「昨夜出歩いてる所を見付けたんですけど……」
起きた時、高嶺の姿はなかった。
普通に登校しているなら構わないが、さすがにあんなことがあった後だ。もしかしたらと過る予感に気にかかってしまう。
「調べてみようか? 何年生?」
「え? ぁ……いえ、大丈夫です。自分で調べますので」
何かと忙しい近藤先生に迷惑をかける訳にはいかない。俺は会釈して、逃げるように職員室を後にした。
窓の外には晴れやかな空が広がり、その下で生徒たちが怠そうにソフトボールを投げて距離を測っていた。
あの生徒たちと同じなんだな。
近藤先生に言われて気づかされた。俺は高嶺の学年を知らない。学年だけじゃなく、名前以外何もだ。
一日家に泊めたというだけで、高嶺は名前を知ってるだけの生徒の一人なんだ。
それならこれ以上関わるべきじゃないのだろう。高嶺もそれを望んで、黙って出ていったのかもしれない。
そう考えを纏め、俺は高嶺を探すのをやめた。
正直、ここの生徒なんだから校内ですれ違うだろうと思っていた。
だけど実際は後ろ姿すら見かけることもなく一週間が過ぎ、十日が過ぎ、一月が過ぎて、日々の生活をこなす内に春に溶ける雪のように俺の中から高嶺の存在が消えかけていた頃。
帰宅した玄関の前、汚れた服を乱れさせ顔に青アザがあるボロボロの高嶺がドアに凭れて眠っていた。
『宵待ち』...end
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