1
今日だろうか。それとも明日。
その明日が今日になって、明後日が明日に変われば、また考える。
そんな堂々巡りの毎日だった。
「よう、イケメン」
「その呼び方はやめてくれませんか」
「だってイケメンだろ」
追試に一人で残る、放課後の教室。
開け放たれた後ろの戸口から現れた奴は、笑顔のまま少し眉を寄せた。
「好きでこんな顔に生まれたわけじゃないです」
「なにそれ、自慢?」
「そんなつもりは」
「自慢にしか聞えない」
今度は眉間に深い皺が作られた。俺との会話が不快なのかもしれない。
だから不思議だ。
「なんで俺の所に来んの?」
ここ数日、同じクラスでもない奴が不自然な程近くにいた。
ストレートに聞き過ぎたか。奴の口がへの字に歪む。そんな表情すら様になって、感心と嫉妬。感情を隠そうとしないのは性格なのか、はたまた気の緩みなのか。
それを特定できる程、奴の情報は多くない。
「帰るのか?」
踵を返し歩き出した背中に問い掛ける。
「僕が居ると迷惑みたいですし」
「誰が」
「君が」
「言ってねぇよ」
「迷惑じゃないとも言ってません」
「屁理屈」
ギッ。と音を鳴らし椅子を引いた。
「座らせてやるよ」
掴んだのは、名も知らない隣のヤツの椅子。背を向けたままだった奴は一度動きを止め、ぱっと振り返った。
「お言葉に甘えて」
さっきまでとは一変。眉間の皺はなくなり、相好を崩した。にこにこと横に座る奴の息が、頬杖を突いた腕にかかる。
近過ぎたか、と遅い後悔。
「聞きたい事が」
「問題の解き方?」
机の上の真っ白なテスト用紙に視線が落とされた。
「嫌味かよ」
「そんなつもりは」
「ムカつく」
「すみません」
「お詫びに解き方教えろよ」
「お安いご用です」
多くない情報で、頭の良い奴なのは知っていた。先日行われた期末テストでの奴の実力だ。
その期末テストのせいで、俺は追試を受けさせられてるのだけど。
「今度は僕が聞く番ですね」
奴がそう切り出したのは、テスト用紙が全て埋まった時。
「君の事を『きみ』としか呼べなくて困ってます」
「知ってるかと思ってた」
「君はどこにも存在を置きませんから」
わからなかったです。と告げられたのが、なるほど。ここ数日の近さの真相か。
テストのお礼に、と俺はシャーペンを空欄のそこに走らせた。
「い、うら……しょう」
「かける」
「井浦、翔」
噛み締めるように言われ、感じた居心地の悪さ。
「っ、もう帰れよ」
「まだ聞きたい事があります」
突き放す為に言ったのに、奴は引き下がらない。
「……まだあんのかよ」
呆れて呟けば、奴は満面に笑顔を浮かべた。
「カケルは知らない事ばかりです」
無邪気に向けられる興味に、沸きあがる、怖さ。それはいきなりの馴々しさすらどうだっていい程に、体中を蝕む。
「帰る」
俺は荷物を手早くまとめ、テスト用紙を教卓に裏返しに置き、教室を出た。後ろから着いて来る足音が俺の足音より少くて、……悔しい。
「着いてくんなっ」
「今更です」
返された不満に言葉が詰まる。
コイツの存在を許した、俺の責任か。
「なにが知りたいんだ」
仕方ない。足を止めて振り返った。追掛けてきた奴も足を止め、廊下のど真ん中で対峙する。
「取り敢えず携帯番号とメールアドレスと……」
「ナンパかよ」
「あと住所」
「いきなりだな」
「今度泊まりに行きたいです」
「……本当いきなりだな……」
「あ、僕の家に来たいですか?」
「言ってねぇよ」
急速に縮めようとする仲に戸惑った。さっきから感じる居心地の悪さは、不慣れな状況への不安感。
「カケルと仲良くなりたいです」
「不毛だよ」
「見返りも結果もいりません」
「よくわからないな、秀才」
「その呼び方もやめてくれませんか」
「だって秀才だろ」
彼の眉間に本日二度目の皺が寄せられた。
不快ならば関わらなければ良いのに。ここ短期間で何度奴のこの表情を見たのだろう。
頭の良い奴は、変り者なのだろうか。
「じゃ、俺帰んね」
踵を返して、後ろ手にヒラヒラと手を振った。その手を掴まれ、進めた距離を戻される。
「まだ話が終わってません」
俺は視線を強い物にして、奴を見上げた。
「俺、結構忙しい身なんデスが」
「バイトとかしてるんですか?」
「あんたにカンケーない」
「関係あります」
「なんでだよ」
「友達ですから」
「……いつの間に……」
駄目だ。ちょっと疲れてきた。
「デートが、……あるんだ」
嘘をついた。早く解放されたくて。
「なら僕も行きます」
だけど、予想外の展開。
「何でだよ!」
「カケルの彼女に挨拶しなきゃいけませんから」
「どうしてお前が挨拶する必要があるんだ」
「カケルの彼女なら僕の彼女も同然です」
どんな理屈だよ。と言う疑問は声にはしなかった。この押し問答に本気で疲れてきた。
「……彼女なんて、居ない」
素直に白状すれば、奴は口端を薄く上げた。
「嘘、吐いたんですか」
傷付いたと言いたげなニュアンスの言葉が、小さくのし掛かる。心でうっ、と呻いた。
元はと言えば、嘘を吐かせるコイツが悪いのに。
「あんたがしつこいからだ」
「しつこくさせるのはカケルです」
「俺が悪いと?」
「僕に悪意はありません」
「……」
駄目だ。口で勝てる気がしない。
ヤケクソ、と言うか……降参。
「わかった、ケー番もメアドも住所も教える」
待ってましたとばかりに、奴は笑顔で肩に掛けた鞄から携帯電話を取り出した。
何でコイツがこんなにしつこいのは知らないが、本気で疲れた。もう付き合ってられないから、素直に要求を呑む事にした。
「家、逆方向なんですね」
住所を教えた途端、奴は残念ですと肩を落とした。
何が残念なのか聞くのも煩わしいからスルー。その内心で、俺はほっと安堵していた。もし同じ方向だったら、一緒に帰りましょうとか言い出しそう。
ああ、想像しただけで悪寒が走る。
そんな事を考えながら教えられた奴のケー番やアドレスを仕方なく、そう、仕方なく登録中、名前の入力で手が止まる。
「あ、僕の名前は……」
「榎本だろ」
別に名前がわからないわけじゃない。だけどさらりと言えば、奴は目を輝かせて両手を大きく広げた。
何だ? と思ってるのも束の間。
「嬉しいです!」
「ぎゃっ」
あろうことに奴は俺の背中に腕を回し、遠慮なく抱き締めてきた。見た目の柔さから考えられない半端ない力に、背骨が軋み肺が圧迫された。
「えのっ……榎本! くるしっ……!」
俺の悲痛な叫びが、夕焼け色の廊下に虚しく響いた。榎本の力はなお強く俺を締めて来る。
苦しい、苦しい! 背骨が砕ける!
生命の危機に思わず手を出しそうになれば、途端に身体を潰す圧迫感が消えた。
「今日早速メールします! カケルもメール下さいね」
抱擁から解放されフラフラしてる俺の両肩を掴み、奴は笑顔で、女子が見たら卒倒モノの満面の笑顔で言う。奴のバックに、瑞々しい花まで見えてくる始末。
……俺、本気で疲れてきたんだろうな。
返信しなきゃ後が怖そうだから、俺は素直に頷いた。
それから上機嫌の奴に拐われるように、校門まで一緒に歩いた。これ以上疲労を蓄積したくなくて、文句は言わず奴の好きにさせた。それが一番賢明な選択に思えたんだ。
これも校門までの辛抱。
そう思えば堪えられる。
「人との別れはこんなに名残惜しいものなのですね」
奴は一人感傷に浸り、暮れなずむ空を見上げていた。そんな奴を尻目に、俺は歩き出す。
さっさと帰りたい。
「カケル」
けど、また腕を掴まれて歩いた距離を引き戻され、
「──っ」
頬っぺたに、キスされた。
「それじゃ、また明日」
放心してる俺に相変わらずの笑顔で言うと、奴は颯爽と歩き出した。その背中を見送りながら、思い出す、編集途中のアドレス帳の存在。
携帯を取り出し、開いて、名前の入力。
今度は迷わず打ち込んだ。
『変態』
登録完了。
prev / next