1
机に置かれたデジタル時計が、日が変わって三十分経ったことを知らせた。
ベッドの上から見ていた視線を体育座りした足元の物に移す。先ほどまで聞こえて居た気怠げな声を発する事はなく、今はただの四角い塊になっていた。
その通話の切れた携帯に触れる。熱のない電子機器は微かな冷たさを持っていた。まるで温度でもって俺を導くような、そんな気さえするのは、先ほどまで聞かせてくれていた菊地との会話のせいだろう。
『自分の気持ちを、ぜーんぶ愚直に受け入れればいいんだよー』
頭に響くのは今さっき耳に聞こえていた言葉。
「気持ちを、受け入れる……」
俺はゆっくりゆっくり深呼吸をしてから、ベッドから降りた。
ドアに足を向ける。その隔たりを開いた向こうは暗く、音が無く静かだった。
母さんはもう寝たかな。明日も早いと言ってたから、多分、夢のなかだろう。
俺はドアをゆっくり閉めて数歩足を進ませてから、小さく呼びかけた。
「樹」
樹の部屋の前。ノックをしてみるが返事はない。
俺はその場にしゃがんでドアに背を預けて、膝を抱えた。
「勝手に喋るから、できたら聞いてくれ」
母さんが起きないように、聞かれないように声を抑えながら。
そうだな、まずは。
「助けに来てくれて、ありがとう」
正確に助けてくれたのは菊地だけど、樹が来てくれて安心した。
「覚えてるか? 助けて貰うのは今回で二回目だよな」
一年の時、酔っ払った先生に絡まれた所を樹に助けて貰った事がある。
情けないけど、怖さに俺は樹の胸の中で泣いてしまった。
あの時樹は何を思ったんだろう。
樹の気持ちを知った今、そんな事を考えてしまう。
「なぁ樹。俺のこと……まだ好きか?」
最初樹は好きだと訴えるだけだった。
だけどすぐに、俺にも好きになってと要求してきた。
「俺ね、樹の気持ちに応えたいって、思ってたんだ」
きっかけは同情みたいな物だったのかもしれない。それでも気持ちが向かったのは事実で。
「けど樹の気持ちと同じくらい好きになることは、……出来なかった」
自分の身で痛みのように受けたからわかる。樹の怖いほどの気持ちの大きさ。
理屈で気持ちがどうにもならないのも、わかってる。
「ごめん、……ごめん」
それでも、好きになりたかった。
菊地と話したら頭の中が一層ぐちゃぐちゃになった。それが俺の気持ちなんだよ、て菊地は笑ってた。
樹の事を樹が俺を想う位好きにはなれなかった。
だけど樹から突き放されて、急に落ち着かなくなった。足元がぐらついて心許ないような不安定感。
俺から気持ちが離れてしまったんじゃないか。
そんな考えに、身体が芯から冷えて震えるほど怖くなったんだ。
「樹、」
それが俺の気持ちなんだとしたら、この答えは都合がいいのかもしれない。
けど、言っておくべきなんだと思った。
「もし、……もしだけど、」
それが、自分の気持ちを受け入れる事になるんじゃないかと。
「もし俺のことまだ好きなら、──樹と同じくらい好きにさせてくれよ」
意図せず張り上げてしまった声が、小さな余韻を残して日のない空間に溶けていく。暗闇に慣れてきた目で見えないソレをぼんやり眺めた。
廊下の突き当たりにある窓からの月明かりが、薄く俺の右側を照らしていた。雲を纏って半分位しか見えない月は、身を寄せるように窓の隅いて。
それがなんだか自分に重なって、俺は腰をあげた。
「ごめん。俺のこともう好きじゃないなら、っ……今のは忘れてくれ。それじゃ、もう寝るね。……おやすみ」
畳み掛けるように言って、俺は足早に部屋に戻った。
後ろ手に閉めたドアに背を預けて、身体の中からなくなるくらい息を吐き出した。
嫌な汗がにじんでいた。鼓動が速い。落ち着かせるために、目を閉じて深呼吸を繰り返した。
樹から反応はなかった。
時間も時間だ。もしかしたら寝てるのかもしれないし、──それとも。
過った不安を確信にしたくなくて、樹から動きがある前に部屋に逃げた。
だから眠れぬままに迎えた朝、俺は樹が起きてくるより早く家を出たんだ。
◇
春特有の風の強さはなくて、緩かに花の匂いが香る。空は雲一つない快晴。
道は人通りが殆どなくて、今起きたばかりのような寝癖そのままのおじさんが、犬の散歩をしている所とすれ違う程度。清々しい程の環境だ。
なのに、お腹の奥の方に重い物がぶら下がってるような感覚が足取りを遅くさせる。
わかってるんだ。
部屋に逃げたことも早く家を出たことも、結果を先のばにするだけで無意味だってことは。
それでも悪い方にしか考えられなくて、昨日の樹の行動が考えれば考えるほど悪い結果にしか辻褄が合わなくて。
答えを出されてしまうのが怖かったんだ。
◇
登校するにはまだ早い時間。
人の居ない校内は森の中のように静かで、空気が澄んでいるみたいだ。
窓から射し込む朝日が廊下を湖に変え、キラキラ光る教室までの長いストレートに、俺の足音が薄く響く。
まるで世界に一人ぼっちになったような、そんな馬鹿げた錯覚に陥った。
だからと言う訳じゃないけど。
「っ、」
ヒタリヒタリ。
耳に聞こえたもう一つの足音に肩が跳ねる。振り返れば一人の影。
その人物も俺の存在に気付いて無表情に足を止め、──それから目を細めた。
そこにはすぐるが居た。
prev / next