13
◇
「帰ろうか」
樹を見上げて言った。その俺の声がやけに響く。
すぐるが居なくなって二人きりになった倉庫内は、遠くに運動部の声が小さく聞こえるだけで、とても静かだった。
地面で埃を被っている俺のショルダーバッグを樹が拾って、軽く手で払う。射光に舞う埃がキラキラしていた。
有難う。そう言って手を伸ばすより先に樹が言った。
「怪我した?」
歩き方がちょっとおかしいよ、と樹は俺の足下に視線を落とす。
すっかり忘れてたけど、そう言えばライン引きが倒れてぶつかったんだっけ。思い出したら痛みが蘇った。
「……それもやられたの?」
微かに顔を歪めた樹に、俺は慌てて首を振る。あれは俺がぶつかって勝手に倒れただけの、偶発した事故だ。
説明すれば、樹はそう、と小さく漏らした。
「痛む?」
「ん、少しだけ……」
「なら、」
「──っ大丈夫! 大したことない。歩くのに支障はないから」
続く言葉を手を上げて制する。樹の両手は明らかに横抱きの形に上げられていたんだ。
本当に大したことない痛みだし、実際されたら困る。そんな焦りで慌てる俺を見て、樹は口角を上げた。
そこで気付いた。やられた、と。
「帰ろ」
悔しいような蟠り。
だけどそんなのは樹の柔らかな笑みに奪われてしまって、だから俺は頷いて、足を進ませた樹の後に続いた。
◇
陽はいつの間にか落ちていて、夕焼けに染まった帰り道に沈んだ影が伸びている。
樹は喋らなくて、俺も喋らない。
昨日は逃げ出したくなるほどの息苦しさを覚えたけど、燃えるようなオレンジ色の道のりに流れる無言が今は心地よい。
同じ道なのに、不思議と昨日と景色が違って見えた。
「大丈夫?」
聞こえた声に顔をあげれば、少し先で樹が振り返っていた。
「痛む?」
相変わらずの主語の欠けたしゃべり方。離れた距離が痛みのせいだと思ったのだろう。
俺は首を振った。
「ごめん、少し考えごとしてた」
笑みを浮かべた俺の言葉に、樹はそう、と言って歩き出す。
ああ、そうか。
昨日までが、違ったんだ。
歩き慣れた帰り道。
少し緩くなった樹の歩みに俺は歩幅を大きくした。
◇
家に着けば救急箱を持った樹に、ぶつけた箇所の応急措置をリビングでされた。
大したことないかと思ってたけど、ソファに座らされズボンを捲り上げられれば、内出血したらしく青アザが出来ていた。見た目に痛々しい。
「痛くないよ」
包帯を巻く樹の表情が険しく見えて声をかけてみた。目だけを動かし俺を一瞥するだけで、樹は黙々と処置の手を進めた。
「ありがとう、樹」
手当てが終わり使った物を救急箱を片付けている樹に言った。樹は反応しないけど、俺は気にせず続けた。
「樹は怪我とかしなかったか?」
「……別に」
片付けの手を休めず樹は素っ気なく言う。
「そ、か。良かった……あ、」
喋ってる最中、ドアのすぐ横にある定位置の棚に救急箱を戻すと、樹はそのままリビングを出て行こうとする。
ソファに座ったままだった俺は、慌てて立ち上がりその背中を追った。
「樹」
足を気づかいながら急いで階段を上がり、追い付いたのは樹が部屋のドアを開けた時。
「いつ……」
呼ぼうしたのを、顔の前に出された手に制される。
「今日は、べつべつ」
視線も合わせず樹が言う。その意味がわからず首を傾げれば、樹は視線を俺の部屋に向けた。
「あやは、あやの部屋」
つられて自分の部屋を見たと同時に、ドアの閉まる音が聞こえた。
視線を戻した先に樹の姿は既になくて、一人、俺は廊下に残されていた。
いきなりの事で頭が回らなかったけど、つまり、自分の部屋に戻って良い……てことだろうか。
閉められた樹の部屋のドアを見ながらしばらく考えてたけど、そう結論を出して、俺は自分の部屋に足を向けた。
◇
ドアに背を預けて、グルリと見渡した。
樹の部屋に比べて色の統一性なんてなくて、見慣れた天井のポスターが少し懐かしい俺の部屋。
ずっと戻りたかった。
戻りたいと焦がれていた。
だけどいざ戻ってみれば、全然落ち着かなかった。
それは、あの日のまま落ちてる服とか捲れた毛布とかしわくちゃのシーツとか、そういった散乱した物だけのせいじゃないと思う。
だって片付けた後でも全然安らげない。頭の中に重いしこりがあって、そのせいで足元がふらつく感じ。
その不安定さは、夕飯の後にさらに酷くなった。
「気分が悪いって、大丈夫かしら」
樹が夕飯をいらないと言ったと、首を傾げながら母さんが心配そうに漏らした。
夕方見た時は怪我はないようだった。身体は元気そうに見えた。
気分が悪い。
それは昨日の部活中に帰ったのと状況が似ていて。
つまりそれは、身体じゃなくてもっと奥の問題で、たぶん、俺のせいだと思う。
けど、昨日と違って部屋を別々にしてこもってるのは、俺と話しをしたくないからだろうか。
夕飯を終えお風呂に入った後の自分の部屋の前で、樹の部屋を振り返った。
気になるしほっとけないけど、──邪険にされたら、そんな考えに足が戸惑う。その理由がわかってるだけに、俺は樹の部屋をノック出来ずにいた。
『よかったら後で、電話して』
不意に過った。
その言葉に急かされるように自分の部屋に戻り、ドアの脇にあるハンガーにかけた制服のポケットから小さな紙切れを探り出した。その白い紙に乗った数字を画面の中の携帯キーでなぞれば、呼び出し音が耳に響く。
ワンコール、ツーコール鳴って、スリーコール目が途切れた。電話口の向こうからの問いかけは的確で、俺は少し笑ってしまった。
「……うん、俺。……ごめん、今いいかな、──菊地」
sixth day end
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