11
「何も、……無かったから、だからもう良いだろ」
何も、は正確ではないけど。
最後まではしてない、何て言おうものなら樹は容赦なく突っ込んでくるだろうから。
「全然良くないよ」
樹の声音が下がる。
「俺との約束破ったね」
樹の問いに身体が固まった。
「言ったよね、俺。話し掛けられても無視しろって」
「言われた……けど……」
「誰かと接触が無い限り、あやが此処に来る筈ないんだよ」
否定も出来なくて、俺は視線を地面に落とした。
菊地は見事に後始末したのだろう。この場所に誰かが居た痕跡は見られないのに、俺が居る事でバレてしまうなんて、なんて皮肉だ。
「答えないのは、相手を庇ってるのか?」
「え……」
「そいつが好きだから庇ってるのか?」
樹の瞳が暗く揺らめく。
頑なな俺の態度が変に解釈されてしまったみたいで、話がおかしな方向に進み始めた。
「違う……!」
「ならどうして答えられないんだ?」
「そ、……れは」
樹の為なのに。
そうは言えなくてもどかしい。
「相手を教えれば、今なら喋った事は許してあげる」
だけど、と樹は続ける。
「答えないなら、喋るまで犯すよ」
俺は目を見開いた。
樹は俺の頬を両手で包み、顔を近付けてくる。先ほどまで乱れていた樹の息は、だいぶ落ち着いていた。
「今すぐ答えるか、此処で俺に犯されるか、どっちがいい?」
これじゃ災い転じて、また災いじゃないか。
樹は俺が喋るまで諦めそうになくて。
どうしよう。
どう切り抜けよう。
妙案の浮かばない俺を急かすように、樹は言葉を繋いだ。
「あや、誰に、連れて来られたんだ」
俺は小さく首を振る。
「樹、何も、無かったから……本当に何も無かったから」
「何がじゃなくて、誰に、って聞いてるんだ」
ずっと続きそうな押し問答。
後どれだけこのやり取りを続けなきゃいけないのかと、終わりの見えない不安の渦に呑み込まれ始めた頃。
「多分それ、彼女が知ってるんじゃない」
唐突に聞こえた声に肩が跳ねる。静かに両頬を包む樹の手が離れていった。
声のした方を見れば、倉庫の入り口に二つの人影。
「ちょっとっ、引っ張んないでよ!」
「はいはい、暴れないでね」
男女二人。喚き暴れる女の人の腕を男の人が引っ張り倉庫内に入ってくる。その一人の声に、聞き覚えがあった。
茶色の癖っ毛が女の人が暴れる度に揺れている。
入ってきたのは藤森さんと、──すぐるだった。
俺が知る限り接点のない二人。
全く見慣れない組み合わせだから違和感ありまくり。
驚きと戸惑いで二人を見ていれば、その間に割り込むように樹の背中が俺の視界を遮った。
「何しにきた。お前に関係ないことだ」
さっき俺に話し掛けてた時より随分声音が落ちている。表情は見えないけど、威圧するように睨み付けてるんじゃないだろうか。
すぐるは物怖じせず言い返した。
「胸ぐら掴んどいて、関係ないはないよね」
驚いて目の前の背中を視線で上に辿る。
そこで気付いた。
この二人を会わせるのはマズイ気がする、と。
「樹」
俺はセーフティーマットから降り、樹の制服の裾を引いた。
それが全く届いていないわけじゃないだろうけど、樹は反応してくれない。
「そう怖い顔しないでよ。綾斗を心配してきたんだから」
やはり樹はすぐるを睨み付けてるみたいだ。
それより、すぐるが俺を心配してきたというのはどういう事だろう。
「その途中で物陰に隠れてる挙動不審な藤森さん見つけて、──関わってるんだろ。彼女」
すぐるは後ろに隠れるようにいた藤森さんの腕を引き、自分の前に出す。藤森さんの綺麗な黒髪が扇状に広がり流れた。
藤森さんの姿を見て、腹から唸るように樹の声は落ちた。
「藤森、」
藤森さんは怯えた表情で凍り付いた。──けれど、すぐに顔つきを険しく変える。
「アンタが悪いんじゃないっ」
顔を歪ませて甲高い声で叫ぶ。それでも損なわれない可愛いさは流石だけど。
「アンタがフッたりするからッ、折角あたしが告ってやったのに……!」
その自信からくる高飛車な発言はどうかと思う。
「だからあやを襲わせた?」
樹の声が静かに震えている。
藤森さんはふん、と勝ち誇ったように胸を張った。
「彼女を傷つけて苦しませてやろうって、話に乗っただけよ。お兄さんに対象が代わったのは予想外だけど、それでもアンタに一泡ふかせることが出来……」
「ふざけんなっ!」
樹が腹から吠えるように怒鳴る。藤森さんは肩を跳ねさせ、大きな目を一層大きくさせた。
「あやに何かあったら、──殺してやる」
演技なら受賞モノ。
声だけで実行出来そうな迫力に身体が竦んだ。
樹は多分、本気だろう。
「アンタがっ悪いんじゃない……あたしを、バカにする、っから……」
その迫力に負けたのか藤森さんの強気な表情が崩れた。
「あたしじゃ勃たないなんて、……言うから……!」
元が勝気な性格なのか、声を震わせながらも藤森さんは叫ぶ。
その言葉に耳を疑った。
本当にそんな事言ったのか。頭の中で問いかける。
「事実だし、お前じゃ勃たない」
俺の疑問に答えるような、追い打ちをかける言葉。
藤森さんは口を真一文字に結ぶと、視線を地面に落として俯いた。長い髪に顔が覆われる。どこの呪いのビデオの女の人だ、という見た目で肩を震わせて。
泣くかも。
そう思った時にはしゃくりあげていた。
「樹っ、」
止めさせようと腕を引っ張るが、頭に血がのぼってるのか止まらない。
「世界中の男が自分に好意を抱くとでも思ってんのか。自惚れんのも……」
「樹!」
俺は樹の肩を引いて、振り向いた頬をはたいた。
渇いた音が響いて、ピリピリとした痺れが手のひらに広がる。
樹は叩かれた態勢のまま動かない。すぐるも微動だにせず、藤森さんまで泣き顔をあげ目を張り固まっていた。
まるで世界中が停止したような、そんな錯覚さえした。
「そんな言葉、女の子に言うもんじゃない」
樹は怒った顔を俺に向けた。
「何で庇うんだよ! アイツはあやに酷い事しようと……」
「だから何言ってもいいのか? 違うだろ」
「……っ」
樹は口を噤む。
「どんな理由があっても、女の子を悲しい想いで泣かせるのはいけない事だ」
俺は樹を見据え言った。
「謝るんだ」
樹は眉間に皺を寄せ黙りこんでいる。それは葛藤の表れだろう。迷いがなければ樹なら口に出す。
「樹」
だから促すように名前を呼んでやれば、少し間を置いて、樹は藤森さんの方を向いた。
視線を下に逸らす。
「……悪かったよ」
不貞腐れた言い方だけど、確かな謝罪の言葉だった。
俺は樹の前に回り、藤森さんの目の前に立つ。女の子にしては高めな俺と大差ない身長だから、見上げる事もなく、藤森さんは困惑した目で真っ直ぐ俺を見ていた。
「ごめんなさい藤森さん。弟の言葉が藤森さんを傷つけてしまって、謝って済むことじゃないかもしれないけど、──本当にごめんなさい」
深く頭を下げれば、藤森さんがみじろぐ気配がした。
「あ、たし……」
小さな呟きに顔をあげる。藤森さんは所在なさげに視線を漂わせ、背後のすぐるに留めた。
すぐるは柔らかく笑みを浮かべた。外からの光で形を縁取って明るく見えていた茶色の癖っ毛が、緩やかに上下する。
藤森さんは少し俯いて、それからおずおずと俺たちの方を向いた。伺うような視線が地面と俺たちをいったり来たりしている。
それから一度唇を結んで、藤森さんは言った。
「……ごめ……なさ……」
消え入りそうな囁く声だった。
最後の方なんて全く聞き取れない。
それでも、確かに耳に届いた言葉。また俯いてしまった藤森さんの顔は、長い髪に隠れてしまい窺い知れない。
だけど髪からちょこんと出た耳が真っ赤だった。
「──ううん。藤森さんが謝るような事させちゃって、ごめん」
歩み寄って藤森さんの手を握る。弾かれたように顔を上げ、大きな黒目が驚きの色で俺を映した。
「ありがとう、藤森さん。──それと、あの……」
言い難さにもごもごしていれば、藤森さんは小首を傾げる。
俺は意を決して、言った。
「藤森さんは……魅力的だよ、凄く」
大きな目が一層大きく開かれる。その藤森さんの表情を見て、今さら恥ずかしくなった。
励ましたくて言ってしまったセリフもだけど、女の子の手を握るなんて……!
「っ……ごめ……!」
慌てて手を放そうとしたら、逆に強く握られる。藤森さんの大きな黒目が柔らかく俺を写した。
その目に捕らえられて動けないで居れば、藤森さんは恥ずかしそうに顔を綻ばせた。
「……ありがとう」
藤森さんのその笑顔は、花のように可愛かった。
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