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「……菊地」
「んー」
「菊地って、……何者?」
夢でも見たのかと疑いたくなってしまう。けれどさっき目の前で繰り広げられた出来事は現実で。
そう言うことに疎い俺でも、凄く強いんだってわかるくらい菊地は凄かった。
なにより、この落ち着きようや対処の早さは一体……。
「王子さまの騎士ってトコかなー」
へらりとした笑顔で茶会す気なのか。そんなんじゃ納得しない俺は菊地をじっ、と見つめる。菊地は困ったように眉を下げた。
「風紀副委員長ですよ」
入り口付近に居た菊地に声が重なった。
聞き慣れないその声と共に入り口に影が現れ、倉庫内に入ってきた。樹と同じくらいだろうか。背が高く、眼鏡をかけた黒髪のインテリっぽい人。
誰だろう。
首を傾げる俺と違い、菊地は驚くでもなく眼鏡の人に話しかけた。
「樹はー?」
質問に答えず、眼鏡の人は菊地の右腕を掴み自分の前に寄せる。
「血が出てます」
俺の位置からは見えないけど、様子から察するに手の甲に怪我をしたらしい。
「かすり傷だって。それより樹──」
続く菊地の言葉は眼鏡の人の行動に吹き飛ばされる。菊地の腕をより引き寄せて、──舐めたのだ。
眼鏡の人の舌が薄暗い倉庫内でも鮮やかに紅を主張していた。
「、真咲っ」
菊地は手を振り払おうと腕を引く。けど真咲と呼ばれた人はガッチリ腕を掴んで放さず、だから反対だったんだ、とフレームの無い眼鏡の向こうで双眼を鋭くさせた。
「誰? 廉さんを傷つけたのは」
真咲さんの口にした名前に聞き覚えがあった。確かさっき、蓮田さん達言っていた。
計画を手間取らせた人物。
菊地はむぅ、と顔を顰める。
「てか、いーたーいっ。放せって」
不満げな菊地の声に、真咲さんは急にすみませんと手を放した。結構な力だったのか、菊地は手首を怠そうに振りながら不貞腐たように言った。
「で、樹はー」
「……鍵を開けた途端飛び出して行きました。廉さんが体育館の方に行ったとは伝えたので、……多分逆方向に」
猛獣のようでしたよと溢す真咲さんに、やっぱりかーと菊地は苦笑い。
「二人片しちゃってー。樹呼ぶ」
視線で足下を示す。小さく頷いて、真咲さんは右肩に針鼠頭の人左脇に体格良い人を軽々と担いで、菊地を見た。
「すぐ行くってーの」
変わらずの気の抜けた声に満足したのか、真咲さんは二人を担いで去って行った。
その様子を見届けてから菊地は俺に視線を戻し、遠慮がちに切り出した。
「……あのね。後で俺、怒られるかもだけど、やっぱりおにーちゃんは知っとくべきかなーって思うんだ」
何を言おうとしているのか。
首を傾げる俺を気に止めず菊地は続けた。
「あー、違う。俺が知ってて欲しいんだよ。だから言っちゃうね、」
迷いの表れなのか。まどろっこしい菊地に不安が煽られる。だけどハッキリ言えないのも無理もない。
菊地が言おうとしてたのは、俺にとって信じられない内容だったのだから。
「あのね、樹、イジメ受けてたんだ」
まさか。なんの冗談。
とてもじゃないけど、ハイそうですかと素直に信じられる内容じゃなくて。
そんな気持ちが表情に出てたのか。菊地はうんと軽く頷いた。
「だーいぶ前。中坊ん時ね、樹、怪我しまくりーな時期あったでしょ」
思い当たる事がある。中学に入学した辺りから、頻繁に怪我をして帰って来る事があった。
成長期の身体に付いてけなくて足が縺れた、とか窓から落ちた、とか本人はそんな事を言っていた。菊地はそれだよと言う。
「……でもっ、いつき、……友達いたし、その時から人気もあったし、……勉強だって出来てた……っ」
そんなわけないじゃないか。
嫌われる要素がないし、みんなの中心でいつも笑っていた。
菊地は表向きはね、と眉を下げる。
「出来すぎるヤツって、不出来なヤツには嫌味な存在でしかないんだよね」
「……不出来な、ヤツ?」
「対照の存在を見てると自分の劣ってる部分が暴かれるようで、劣等感に苛まれちゃうんだよ」
どきりとした。
俺もそうだったから。
少しだけでも、樹に劣等感を抱いてた。
「要はー、妬みとか嫉妬だねー」
でも事実だとしたらおかしい。
中学生の頃の俺たちは、何でも隠さず言い合える関係だった。
なのに俺、知らないんだ。樹からなにも聞いてない。
「隠してたんだよ」
ぽつりと菊地は言う。
「多分ね、かんぺきーな存在で居たかったんだと思うよ。おにーちゃんの前では」
完璧なんて、そんの俺、望んでない。
「せめて、言ってくれれば……っ」
どんなことでも話せる存在だと、自惚れでも、樹にとって俺は拠り所になる存在だと思ってたのに。
「言えるわけないじゃん」
「っ、」
緩やかな菊地の声が胸を抉る。まったく頼りにならない。そう聞こえた。事実、俺は樹よりたくさん劣っていて、頼りになるわけがない。
何でも言い合える関係。そんなものは俺の幻想でしかなかったのかと、目頭が熱を持ったのだけど。
「好きな相手には知られたくないでしょ」
かっこわるいじゃん。眉を下げて笑う菊地の言葉に、俺は息を飲んだ。
樹の気持ちを菊地が知ってる、と言うのも衝撃だったのだけど。
樹はいつから俺を好きだったのだろう。
そんな疑問を抱いた事がある。
「中学で一緒になって樹を知ったけど、その時はもうおにーちゃんの事、だーいすきだった」
そんな前からなんて考えてもなかった。
「同性から見ても文句なしにかっこいーし相応に女子にモテまくりのクセに、樹はいつもおにーちゃんばかり見ててね。馬鹿かーってくらいに底抜けに一途でさー」
昔を懐かしんでいるのか、菊地は楽しそうに語る。その中の樹は、俺の知らない樹ばかりで。
でもそれは樹だけじゃなくて。
「あてられちゃったんだよねー、その一途さに」
菊地は目を細める。
「だから俺、不良から足を洗えたんだよねー」
…………は?
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