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腹を括る、というより諦めていた。
だから聴こえたこの場に不釣り合いの調子外れな声は、幻聴だと思った。
「おじゃましまーす」
薄暗い倉庫内に一筋の光が射し込む。それが錆びた音を鳴らしながら、徐々に面積を広げていった。
倉庫の戸が開けられたのだと、理解したのは入り口に人影を見受けてからだ。
逆光で顔が見えない。けど、確かに誰かがそこに立っていた。
「誰だ!」
背後の誰かが俺の疑問を代弁すれば、その誰かが口端を上げた。
見覚えがあった。闇の中で光りそうな、少しつりあがった猫目。
「おにーちゃん、み──っけた」
そして、怠げなしゃべり方にも。
「きく、……ち?」
そこには菊地がいた。
菊地はいつも見る様に猫目を柔らかく細めて、笑みを浮かべた。
「おにーちゃん、引き取りに来ましたー」
ゆったりした喋りもつかみ所ない飄々とした雰囲気も、いつもと変わらない。一瞬自分が危険な状況下に居る事すら忘れそうになる。
そんな普段通りの菊地が、この場には異質だった。
背後から押し潰していた重みが消える。蓮田さんが退いたようだ。背中に籠っていた熱が、触れる空気に冷やされる。
「っ……どういう事だ! 手は打ったんじゃないのか!」
「いや……、俺はちゃんと……」
「くそっ……! 見張りは何してやがる!」
背後で蓮田さんたちの声が飛び交う。驚きというより戸惑っているのか、声に焦りが滲んでいる。
俺はイマイチ頭が追い付かなくて、蓮田さん達からの拘束が解かれ自由になった身体をセーフティーマットに預け、その様を眺めていた。
「みんなぁ、役割はちゃーんと果たしてるんじゃないかなー」
菊地は首を傾げるように斜め後ろへと視線を移した。つられてその先を追えば、菊地の足元に何か大きな塊があるのが見えた。
なんだろう。
目を凝らして、──驚いた。それは俺だけじゃなかった様で、蓮田さん達が息を飲む音が聴こえた。
話の流れからして見張り役の人だろうか。菊地の足元に男子生徒が一人倒れていた。
「渡してほしーな〜」
倉庫内に視線を戻し、おどけたように菊地は笑う。いま気付いたけど、菊地の手には木刀が握られていた。
そのアンバランスさが異質さを一層際立たせていて。
そんな中で蓮田さんが言った。
「……渡さないって言ったら?」
「言うだけなら構わないよー」
渡してさえくれれば。菊地は躊躇なく倉庫内に足を踏み入れる。
度胸があるというか、……何なのだろう。この場で菊地だけが事も無げに落ち着いていた。
「こっちは三人だ」
カシャッ、と短い金属音。針鼠頭の人の手に折り畳み式のナイフが握られていた。刃に外からの光が刃に反射する。その眩しさに一気に嫌な汗が吹き出した。
「三対一。どちらに分がある?」
体格のいい人がファイティングポーズ。
菊地は首を傾げた。
「オレ、算数嫌いなんだよねー」
針鼠頭の人と体格のいい人が同時に地を蹴った。
二対一。しかも一人がナイフを持っているなんて、明らかに菊地の分が悪い。
だけど菊地は笑みを浮かべていたんだ。
菊地は木刀を両手で握って横に構え、踏み込むと針鼠頭の人のナイフを持っている手を切先で払う。
ガシャンッ。
ナイフが宙を舞って、地面を跳ねた。一瞬動きを止めた針鼠頭の人を振り上げた手を下ろすように打ち込めば、短い悲鳴と共に地面に伏した。
「菊地っ危ない!」
木刀を降り下ろした体勢の菊地に体格のいい人が殴りかかる。
殴られると思った。
なのに叫んだ俺の声が響き終らぬ間に体格のいい人が吹き飛んで、豪快に背中から落ちて。
木刀の柄頭をこちらに向けた菊地が立っていた。
舞う埃や塵すら効果のよう。
アクション映画のワンシーンを観てるみたいだった。
瞬きせず見ていた目の前の事が、あまりの鮮やかさに非現実の出来事に思えた。
「後は、センパイだけだねー」
菊地は姿勢を正して足を進めた。緩やかな歩みで近付いてくる菊地に、蓮田さんは後退りながら静止を求めて手を前に出した。
「っ、……話し合おう……!」
「何をー?」
聞く気はない。そう言外するように菊地の歩みは止まらなくて。
「君の目的はっ、速水君を助けることなんだろう」
必死な蓮田さんの呼び掛けに、うんと菊地は頷いた。それならと、続く蓮田さんの言葉を遮って菊地は言う。
「目的っていうかー、大義名分」
口角をあげた笑みで、菊地は木刀の切先を肩に乗せる。
「暴れても俺、悪くないじゃん」
蓮田さんの後ろは壁。菊地との距離は二メートル。
「来るなっ……!」
追い詰められた蓮田さんは、足元に落ちていたナイフを拾って両手で構えた。
「怪我しても知らないよー」
菊地は相変わらず笑いながら言う。
「うああぁあっ」
ナイフをめちゃくちゃに振り回しながら、蓮田さんが菊地に飛びかかった。
その刹那。
決着は瞬きをする暇なくついた。
「ふぅ、」
涼しげな表情で軽く息を吐く菊地。その足下に蓮田さんが倒れていたんだ。
菊地は俺に顔を向ける。
「ケガしてなーい?」
「う、……うん」
「良かった。樹、すぐ来るんじゃないかなぁー」
蓮田さんたちをあっさり倒した本人と思えない、気の抜けたしゃべり方。我が目で見た光景を疑ってしまうくらいのギャップに呆気にとられる。
そんな俺に、菊地は少し言いにくそうに喋ってきた。
「だからね、服、直したほうがいいよ」
色っぽいのはマズイと思うーと指差された俺の下半身は、蓮田さんに脱がされたままズボンが足首辺りに留まっていた。
乱れたワイシャツのお陰で足しか見えてないとはいえ、なんて恰好。俺は蛙を踏みつけたような声を出して、菊地に背を向ける体勢でセーフティーマットの陰に隠れた。
こそこそ衣服の乱れを正していれば、背後に何かを擦る音が響く。
なんだろう。静かに振り返って盗み見れば、菊地が伸びてる蓮田さんの足を持って入口に引きずっている所。
「後始末ー」
俺に気付いた菊地は、にい、と笑う。
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