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「随分良いお兄さんに恵まれたんだね、彼は」
羨ましいな、と笑う蓮田さんの言葉が少し擽ったくて気恥ずかしい。
「全然良い兄じゃないですよ。──それより、部活遅れてしまいますね。さっさと運びましょうか」
俺は倉庫内に足を踏み入れた。
教室半分程の広さのそこは薄暗く、外から入り込む光で塵が舞っているのが見えた。見渡せばライン引きやサッカーボールといった、主に屋外で使用する用具が収められていて、バスケに使うような道具は見当たらない。
一体何を運ぶのだろう。
蓮田さんに聞こうとした矢先に言われた。
「申し訳ないね、お兄さん」
「え? ああっ……そんな!」
心苦しく思わせたのかと慌てて笑顔を作れば、隣に立つ蓮田さんは予想外に穏やかな笑みを浮かべていて、違和感はあったけど安堵した。
「それより一体何を……」
運ぶのか、と本題に戻そうとした言葉が止まる。視界の端に影が映って気が逸れたのだ。
視線を移せば、入口に三人の男子生徒の姿。いつの間に来たのだろう。三人共に体格が良く背が高い。バスケ部員だろうか。
「お兄さんなら、恨まないでくれるかい」
「……え?」
言葉の意味が理解出来ず横に視線を戻せば、穏やかな笑みは歪んで見えた。
「蓮田、さん……?」
俺の声と重なって、背後で扉が閉まる重厚な音が響いた。
「ソイツが速水のオニイチャン?」
「もっとゴツい奴かと思えば、随分可愛らしい子だねー」
入口に居た内の二人が下卑た笑みを浮かべながら近付いてくる。もう一人はいつの間にか居なくなっていた。
二人が纏う得体の知れない雰囲気が何だか怖くて、馬鹿にしたような言葉も気にならなかった。
「君の弟には頭にきててね」
横からの声に見上げれば、蓮田さんは顔を忌々しげに歪めていた。
「殆ど部活動に参加しないのに、やっと来たと思えば僕の言うことは全く聞かない。しかもフラリと途中入部したくせに、それまで僕へ向けられていた女生徒の声援と歓声を全てかっさらっていった。観客を倍に増やしてね。……何が良いんだろうね、あんな奴」
矢継ぎ早な不満の後に、僕の方がかっこいいのにと息を吐く。
「少しモテるからって調子に乗って、ああいう奴には、痛い目見せて現実をわからせてやらないとって思ってたんだよ」
言いながらジリ、と距離を縮めて来る蓮田さんに、俺は反射的に後退る。
「そんな時に吉報だったよ、彼女が出来たというのは」
体が微かに跳ねた。流石にもう自覚はある。俺の事だ。
別の緊張に包まれてる俺を露知らず、蓮田さんは続けた。
「彼女を輪してやろうと思い付いたんだ。それを写真に撮って、アイツに送り付けてやろうって。屈辱だろうか? それとも憎悪だろうか? 歪む顔を想像したら、胸が高鳴ったよ」
殴るよりも精神的にクルだろ、と笑う蓮田さんが、悪魔のように思えた。
「けどね」
嬉々として語っていた蓮田さんの表情と抑揚が消える。首を傾げて俺を見下ろす右目に、長い髪が流れて影を作った。
「見付からないんだよ、彼女が。名前に『あや』って入る女子を手当たり次第探して問い詰めたのに、ことごとくハズレ。要らなく怪我人まで出してしまう始末」
とんだ体たらくだよ、と大袈裟な溜め息を吐いて喋られた内容に覚えがあった。
「……病院送りになった……女子生徒……」
すぐるが言ってた、傷害事件。
「違うかどうかさえ知れれば良かったのに」
まさかと思った俺の呟きに、蓮田さんは苦々しげに吐き捨てる。その後ろから言葉が続いた。
「あの女、モテないから嫉妬してるんだろ、て突っ掛かってきてよ」
「絡んで来るもんだから振り払ったら、勝手にバランス崩して階段から落ちやがった」
反省なんて微塵も感じられない、武勇伝のように笑いながら語られる話。
怒りより絶望で、目の前が暗転した。後退る足下がフラついて、何かに躓き派手な音と共に俺は転けてしまった。
「──う゛ッ」
足首に痛みが走る。どうやら躓いたのはライン引きだったようで、俺の足首に倒れて来ていた。中身が空だったのは不幸中の幸いだけど。
尻餅を着いたまま、立ち上がる事が出来なかった。
そんな。
そんなっ……。
俺を探す為に、俺のせいで、無関係な子が怪我をしていたなんて……。
「アイツを見張ってもそれらしい女生徒との接触は無いし、彼女ってのは嘘なんじゃないかと考え始めてた時、──君を見付けた」
話の軸が俺に戻る。埃だらけの床に彷徨っていた意識が、現実に引き戻された。
いつの間にか目の前には巨大な壁。見上げれば、俺は三人に囲まれていた。
蓮田さんの左隣に立つ針鼠のような髪の人が、細い目を更に細くして笑った。
「アンタら随分仲が良いみたいだから、オニイチャンをボコちゃおうかー? って事になったのよ」
ファミレスでメニューを決めるような軽い調子で告げられたのが、ああ、これから俺がされることなんだ。
「君を連れて来るのは大変だったよ。本当に仲が良いんだね。アイツとずっと一緒にいて全く一人にならないし、風紀の奴らがうろついててね」
黙って服装だけ取り締まってればいいのに、と心底嫌そうに言う蓮田さんに、右隣の一番体格の良い人が続いた。
「廉の差し金だろ。普段出てこないくせに、随分ちょこまか動いてやがった」
耳を抜けていく馴染みない名詞が、手間取った最大の要因だと顔を歪めていた。
「所詮、悪足掻きだったけどね」
嘲笑しながら、蓮田さんは身を屈める。
「君には恨みはない。恨むなら、弟を恨むんだね」
ブレザーごとワイシャツの襟元を掴まれ、勢いよく引っ張られる。ブチブチと糸が切れる音がして、地面から身体が浮いた。
殴られる。
そう直感して俺は目を瞑り、歯を食い縛って身構えた。
けれど、予測した衝撃はいつまでも俺を襲う事はなかった。
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