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暫くして、手の中からヘンテコな歌声が聴こえて来た。
俺は握り締めたままだった樹の手を慌てて放す。通話状態の携帯を、菊地を、すっかり忘れてしまっていたのだ。
だけど焦る俺とは対照的に、樹は徐ろに携帯を耳にあてると、
「……何でもない」
謝る事なく、たった一言で通話を切ってしまった。その様に俺は呆気とする。
鷹揚、と言えば聞こえはいいけど、二人の関係は大丈夫なのだろうか。心配する俺を他所に、その淡白さは対象が換われば姿を変えた。
「いい、あや? 俺と別れたら真っ直ぐ体育館に行って、昨日と同じ場所に椅子がある筈だから、そこに座ってて。なくても、その辺りに居て。絶対、変な奴に着いて行かないで、誰に話し掛けられても無視するんだ。──それから……」
「樹」
まだまだ続きそうな樹の言葉を遮った。
「子供じゃないんだよ、俺」
苦笑いが漏れる。
だって樹、我が子をお使いに送り出す親みたいなんだ。言ったら樹は渋い顔をしていた。口煩くなる理由は、はたして一緒なのだろうか。そんなのらしくない。
けれど例えばそうなら、と考えに胸がやんわり撫でられる。
「すぐに戻る」
小さく頷けば、樹は目を細めた。その目がとても心地好い。
だからだろうか。
背を向けて歩き出した樹との距離が心許なくて、樹の言葉を願わずにいられないのは。
「……体育館行かないと」
樹の姿が見えなくなって、俺は体育館へと足を向けた。
階段を降りて運動部の部室が並ぶ廊下を通り、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下を行けば体育館。たったそれだけの道のり。時間にして徒歩二分程の距離だ。
学校内だし、その間に危険な要素など無いのに。
(心配し過ぎだよな)
階段を降りながら樹の過剰な様子を思い起こす。樹をそうさせてるのは、今までの俺の行いの結果なのだろうけど。
(あまり心配掛けないようにしないと)
その一歩として、まずは言われた通り体育館で樹の帰りを待っていよう。そう決意して、俺は歩む足に力を込めた。
階下に着けば着替えの時間と重なったのか、部室から話し声や笑い声が聴こえてきたり廊下でパンを頬張りながらたむろする生徒が居たりと、少し賑やかだった。
俺も何か部活に入ろうかな。なんて、楽しげな雰囲気に当てられて考えながら、着替えが終わっただろう数名の生徒が体育館に向かう後ろを緩やかに歩く。
渡り廊下に出て中程まで進んだ時。
「──ぃ、おーい、速水君ー」
遠くから俺の名を呼ぶ声がした。
足を止めて見渡せば、二十メートル位離れた体育館の傍らにある倉庫の前で、大きく手を振る人影が見えた。
霞が掛かったように顔がボヤけてる。けれどシルエットだけで特定出来るその人は、バスケ部部長の、確か、──蓮田さん。
長髪を靡かせながら、青春ドラマよろしく手を振り駆け寄って来た。
「こんにちは」
「こっ、……こんにちは……っ、」
爽やかな挨拶に思わずつられ、──慌てて口を噤んだ。
だ、駄目だ……っ。
樹に誰とも喋るなって言われてたんだ。
「もしかして、今日も見学?」
そんな俺の事情を知る由もなく、蓮田さんは変わらぬ笑顔で話し掛けてくる。迷った挙句、俺はコクコクと首だけで返事をした。
「ならお願いがあるんだけど……」
言いながら、さっきまで蓮田さんが居た倉庫の方向を指差す。
「部活で使う道具を運ぶの、手伝って貰えないかな?」
数が多くて一人じゃ無理そうで、と申し訳なさそうに続く言葉に俺は固まった。
っ……無理だ!
今の状態で既にまずい。直ぐに走り去ってしまいたいのに、手伝いなんてしようものなら、そんな所を樹に目撃でもされようものなら……。
そう考えただけで冷や汗が滲む。
「……す、すみません、……俺ちょっと……急いでて……」
だから断ろうとしたのだけど。
「バスケ部の見学なんだよね?」
「っ………、あの……あ、俺、上履きだから……」
喋ってる最中に、蓮田さんの靴が目に映って口が止まる。咄嗟に思い付いた割りにもっともらしい大義名分だと思ったのに、蓮田さんの靴も上履きだった。
「砂払えば平気だよ」
蓮田さんの爽やかな笑顔で、俺の逃げ道は無情にも失われてしまった。
こうなってしまったら仕方ない。
一刻も早く用を済ませて戻ろうと、蓮田さんと共に倉庫に向かう事にした。
その途中で話し掛けられる。
「樹君は一緒じゃないのかい?」
「ぁ、……ぇと。ちょっと用事があって、後から来ます」
焦る気持ちから早口になる。蓮田さんはそんな俺を気にするでもなく、そう、と納得したようだ。
「……そう言えば、昨日はすみませんでした」
唐突な俺の謝罪に、蓮田さんは笑みを浮かべたまま何がだい? と聞いてくる。
「弟が勝手に帰っちゃって……」
昨日、樹は部活を放棄して途中で帰ってしまった。それも『機嫌が悪いから』という身勝手な理由で。
蓮田さんは理解したようで、ああ、と口を開いた。
「慣れてるよ。しょっちゅうだし」
「しょっちゅう?!」
さらりと言う蓮田さんに驚けばいいのか、それとも昨日の悪態が一度限りじゃなかった事に驚けばいいのか。
話してる間に倉庫に着いて、開けられてた観音開きの戸から中に入って行く蓮田さんに、俺は声を張った。
「すみません、本当にすみません! 今後は態度を改めるよう言っておきますので」
入口で頭を下げた俺に、蓮田さんが聞いてくる。
「どうして君が謝るんだい?」
首を傾げた蓮田さんの問いに、俺も首を傾げた。
「兄ですから」
質問が不思議だった。
当たり前の道理だと、疑問に思った事なんてなかったから。
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