For one week | ナノ


 
 焦りから筆記用具を落としてしまい、帰り支度に少しもたついた。そのせいか、教室を出た時に見た進行方向に樹の姿はなくて。

『絶対、俺から離れないで』

 朝言われた言葉が脳裏を過る。
 まずい、と駆け出した矢先、

「わっ、──わゎ!」

 後ろから腕を引かれて、重心の軸が崩れ踏み出した足が宙を蹴る。
 よろめきながら振り返れば、戸口脇の壁に樹がいて。その樹の手が俺の腕に伸びていた。

「ごめ……待たせ、た?」

 驚きに戸惑いながら聞けば、表情なく別にとだけ返される。
 ……怒らせてしまったのだろうか。素っ気ない樹の態度に不安が煽られる。
 けれど腕は掴まれたままで、俺がよろけた体勢を立て直した時、やっと放された。

「行くよ」

 言葉と共に樹は歩き出して、俺は直ぐに後を追って横に並ぶ。
 ホームルームの終りがズレたのだろうか。放課後の廊下は何時もより生徒が少く、歩きやすかった。
 そのお陰で、気付いた事がある。

「樹、……ありがと……」

 突き当たりに差し掛かった所で小さく言えば、樹は歩みを止めず横目に視線をくれた。

「なにが」
「部活とか、それに……色々」

 樹の歩幅は狭く速度は緩やかで。
 それは慣れた俺の歩調だった。

 思えば、朝からずっと気遣ってくれてるように思う。

 急に樹が歩みを止めた。

「あや」

 俺も足を止めて樹を見上げれば、少し厳しい表情が見下ろしていた。

「わかってる? 帰ったらまた俺に、抱かれるんだよ」

 身体が強張った。反射的なものかもしれないけど。染みついてしまった恐怖や背徳感といった感情が、内側から溢れて身体中を蝕み硬直させる。
 樹は言葉を続けた。

「そんな俺に有難うなんて言うの? 随分呑気なものだね」

 樹は表情をかえず、嘲るように吐き捨てる。

「昨日みたいな事も、しかねないのに」

 だけどそう言った時、樹の顔が微かに歪んだ。瞬きをしてたら見逃してしまう程、たった一瞬の変化だったけど。

(ああ、やっぱり)

 歪みは痛みを堪えてるようだった。
 多分、樹は昨日の事を悔やんでいるのだろう。

 俺は樹を見上げたまま口を開く。

「樹、俺……」
「──居たっ、見付けた!」

 だけど俺の言葉は、バタバタと慌ただしい足音を立て走って来た誰かに遮られる。
 何事かと見れば、一年生だろうか、小柄でおとなしそうな男子生徒が俺達の真後ろで息を切らせていた。

「速水、樹さん……ですよね?」

 男子生徒に移した視線を樹に向ける。樹は何も答えず無表情で男子生徒を見据えていた。

 知り合いという雰囲気ではなさそう。
 切れる息を繋いで男子生徒は話し掛けてきた。

「すみませっ……あの、っ屋上まで、……来てもらえま……」
「嫌」

 だけど樹は、にべもなく話を遮り一蹴して、行くよと俺に先を促す。それに気付いて、男子生徒は慌てて止めに入ってきた。

「まっ、待って……下さい! お願っいします! そんな事っ……言わないで!」

 俺は進ませようとした足を止めた。男子生徒が酷く必死に見えて、蔑ろにするのは忍びなかったんだ。
 ちっと聞こえた舌打ちの音に振り返れば、樹も足を止め、男子生徒に視線を向けていた。

「何の用」
「いや……僕は、呼び出してこいって……言われただけで……」

 苛立った樹の声に男子生徒はたじたじで。
 それが癇に障ったのだろうか。

「なら、相手は誰」

 相手を睨み付け凄む樹の迫力に、男子生徒は今にも泣き出しそうだった。

「樹」

 俺は見かねて樹を小声で呼んだ。
 目だけで俺を見た樹に、小さく首を振る。そんな態度はよくないよ、と。
 樹は納得いかない、と不満げに顔を顰めて、それから男子生徒に視線を戻した。

「……相手は誰」

 不承不承という感じ。
 それでも怒気の抜けた樹の声にほっとした。

 肝心の男子生徒は突然和らいだ雰囲気に戸惑ってるのか、不安げに目を泳がせている。余程恐ろしかったのだろう。

(迫力あるもんな……凄んだ樹は)

 気持ちがわかるだけに不憫でならない。
 男子生徒に同情の目を向けていれば横から視線を感じて、見上げると樹が横目に俺を見ていた。
 どうしたのかと首を傾げれば、樹は小さく溜め息を吐いた。

「相手は誰」

 樹は視線を男子生徒に戻し、今度は宥めるような優しい声で問い掛ける。
 その声に男子生徒は目を数度パチパチッと瞬かせ、おずおずと口を開いた。

「ふじ、もり……さんです」

 か細く囁くような声。
 だけど、確かに告げられた名前に驚いた。

 藤森さん学校に来てるのか?

「はぁ? 今さら話す事なんて……」
「、行きます! 行かせます!」

 露骨に顔を歪めた樹の言葉を遮って、俺は身を乗り出し言った。瞬時に睨むような視線が刺さる。後が怖いだろうけど、今は無視。

「俺が責任持ってちゃんと行かせますから、任せて下さい」

 ね、と男子生徒に言い聞かせれば、戸惑っていた表情が崩れ、安堵したように薄く笑みを浮かべた。

「お願いします」

 そう言い深々と丁寧な一礼をして、男子生徒は去って行った。
 
 男子生徒が廊下の角を曲がると同時、樹の声が地を這った。

「あや」

 きたっ、と身体が強張った。
 怒りを含んだ不機嫌な声に、身体が反応する。

「どういうつ……」
「樹、ごめんっ」

 樹の言葉をすかさず遮った。先手必勝と言う訳じゃないけど、問答では俺に勝ち目はないから、先に訴える。

「ごめん、勝手なのはわかってる。でも俺、……藤森さんが休んでるの気になってて……」

 ずっと、しこりのように引っ掛かっていた。
 樹は訝しげに聞いてくる。

「……藤森が好きなの?」
「っは?! ……違うよ!」

 予想外の質問を慌てて否定する。ちょっと声が裏返った。
 藤森さんは凄く可愛いくて魅力的だけど、今はそんな対象じゃない。

 樹にフラれた後から休んでて、学校に来た矢先に樹を呼び出すという事は、やっぱり樹が休むきっかけになってる可能性が高いわけで。
 そこには少なからず、俺も関係している。

 もし、悲しんでいるなら。
 傷付いているのなら。

 どうにか出来る事なら、何とかしたかったんだ。

「俺も一緒に行くから……頼む、行こう」

 樹が行く気がないのは明らかだ。
 それを無理に樹だけ行かせるのは、無責任過ぎるだろう。

 だけど。

「あやは来なくていい」

 そう言って、樹はズボンのポケットから携帯を取り出した。

 それはつまり、呼び出しに応じてくれるって事だろうか。
 樹は携帯の画面を慣れた手付きで操作し始めた。

「菊地呼ぶから、一緒に体育館行ってて」
「……は……?」

 なんでわざわざ菊地を?
 驚きと疑問が沸いたけど、──すぐに気付いた。

 樹はきっと、また俺が逃げるのを危惧してるのだろう。話す事すら嫌がるのに、その菊地を同行させようとする程に俺の信用はないのか。

 そう思われても仕方がない事をした記憶はある。
 けど、菊地に迷惑をかけてしまう。それはいただけない。

「きっ、菊地だって、用事とか…あるだろうし……」

 遠回しに思い止まってくれるように促してみる。

「皆弱くて、優遇されてるって」

 けれど何だかよくわからない返答と共に、樹は携帯を耳にあてた。直ぐにもしもーし、と間延びした声が漏れてきたから、俺は慌てて携帯に飛び付いた。

「俺ちゃんと体育館で待ってるよ」

 携帯の通話口を樹の手ごと握って、無理矢理耳から離させた。

「約束しただろ、もう逃げないって」

 少し顔を顰めた樹を、俺は真っ直ぐに見上げた。手の中で気怠げな声が首を傾げている。

「俺、樹を待ってるから。だから藤森さんの言葉を聞いてあげて、ちゃんと話して、……それで……」


 それで。


「早く、戻ってきて」

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