For one week | ナノ


 
「あー樹だ。おーはよ〜」

 教室の戸口に着いて直ぐ、気の抜ける間延びした声が樹を迎えた。

 前に立つ樹の背中で相手は見えない。けれど、聞こえた声と独特な喋り方に、俺の脳裏には特徴的な猫目とサラサラの赤毛が浮かんだ。
 人の話声を掻き分けるようにペタリペタリと足音が近付いて来て、止まると樹の肩越しにヒョコリと頭が覗いた。

「おにーちゃんも、おーはよ〜」

 予想通りの菊地が、俺にヘラリと笑みを向ける。元から眠たげな喋りをするけど、朝は二割増しだ。
 そんな菊地に挨拶を返そうと口を開きかけて、慌てて口を噤んだ。

 駄目だ、喋ったら。
 挨拶だけでも、きっと樹を怒らせてしまうだろうから。

 俺は菊地から逃げるように床へと視線を落とした。

「ん〜。二人仲良くフチョーな感じ?」

 俯いた俺に気を悪くした素振りもなく、菊地は眠たげな調子で続けた。

「樹ー、ちょーっと話がある」
「……なに」
「こっちきて〜」

 何処かへと促す菊地に樹は黙り込む。どうしたのだろう。不思議に思い視線を上げれば、見計らったようなタイミングであや、と小さく呼ばれた。

「席、行ってて」

 背中越しに告げ、樹は俺から離れていく。

「おにーちゃん、少しだけ樹借りるね〜」

 反応しきれず突っ立ったままの俺に、相変わらず眠たげな声がかけられた。
 
 教室前方の窓際。窓枠に腰を預ける菊地と、その前に立つ樹。
 二人は人を避けるように、隅の方で話しをしている。

(なんの話なんだろ……)

 背を向ける樹の表情は見えないけれど、菊地は緩やかな笑みを浮かべていた。その表情を見る限り、深刻な話じゃないのだろう。
 そんな事を考えて俺は二人を見すぎていたのかもしれない。

「!」

 視線を移した菊地と目が合って、手を振られた。まずい、とバツの悪さに俺は慌てて目線を机の上に落として、気付く。

(……あ、また)

 今日二度目だ。菊地から目を逸らすのは。
 こんな態度ばかりとって、菊地に嫌われても文句言えないな。そう自己嫌悪してたら、横からギッと椅子を引く音が聞こえた。見ればいつの間にか戻ってきた樹が、席に座る所。俺の視線に気付いてか、樹は口角を上げた。

「心細かったって、顔に書いてる」
「っへ」

 俺は反射的に手で顔を覆う。そしたら樹に笑われた。

「……からかっ……たのか」
「帰ったら可愛がってあげるから」
「っな……!」

 また何て事を。場所を気にしない樹の発言に抗議しようとすれば、元気な声に遮られた。

「おはよう、みんな席に着いてー」

 教室にハナちゃんが入ってきて、立っているクラスメイト達に手を叩いて着席を促す。のろのろと席に向かうクラスメイト達の姿に、俺は文句を飲み込んだ。
 それをわかってか、樹は横目で笑っていた。
 
 ホームルームが終わると、見慣れたクラスメイトの面々が樹を囲む。それでまた、俺の鼓動を乱す話題を口にするのだ。

「あやちゃんとはどーよ?」

 今日も話題に上がる『彼女のあや』。それはただ樹の彼女というだけじゃなく、実体が掴めないだけに興味は尽きないのかもしれない。
 樹は何て答えるのだろう。昨日の事があっただけに、返答が気になってしまう。心拍数が速くなるのを感じながら横目に様子を伺えば、樹はおどけたように言った。

「らぶらぶ」

 周りに居た生徒達は一気に沸き立ち、今度は際どい質問が向けられる。樹は自慢気に昨日の話をして、少し脚色された赤裸々な内容に、最後は惚気と囃し立てられていた。
 気付かれてなくても自分の事。楽しげに笑う樹の横で、俺は恥ずかしさに俯いていた。

 『人前でちょっかい出すのはやめる』

 その約束通り、昨日みたいに人目に触れる所で手を出してくる事はなかった。
 けど昼休みになった途端、無理矢理トイレの個室に連れ込まれて。

「充電」

 そう言って荒々しくキスされた。
 貪るようなそれに、俺は必死で声を堪える。壁で遮られてるといえここは学校だ。いつ誰が近くを通って、バレるとも限らないのに。
 樹の気が済む頃には俺の息があがり、呼吸を整えながら樹を睨み付ければ、誘ってる? とからかわれた。

 けれど不思議と不快ではなくて。

 その全てが、俺を安心させた。



「はぁ」

 一つ息を吐いて、椅子の背に深く凭れる。
 昼休みのアレは置いといて、その後何事もなく放課後を迎えれた事にほっとした。
 穏やかに学校を終えるのは随分久しぶりな気がする。感慨に浸りぼぅ、とクラスメイト達が帰って行く様子を眺めていれば、唐突に声を掛けられた。

「行くよ」

 声の聞こえた右側を見上げる。

「……部活か?」

 椅子から立ち上がり、樹は俺を見下ろしていた。その手には支度を終えた鞄が持たれている。

「行かない、帰る」

 その言い方はつまり、部活があるけど行かない。という事だろうか。

「なんで……」
「今はあやが居る」

 部活に入ったのは、帰っても俺が居なかったからだと言っていた。だとすると、俺が常に傍に居る今、部活動に参加する理由はないのかもしれない。

 だけど。

「……もったいない」

 思わず溢した。
 だって、折角入部したのに。

「昨日ちゃんと見れなかったから、俺、見たいんだ。樹がバスケするところ」

 単純に好奇心もある。だけど途中で投げ出して欲しくなかった。
 どんなきっかけでも、何かを始めるのは良い事だから。

 樹は何を言うでもなく、沈黙の後、俺に背を向け歩き出した。戸口に向かう後ろ姿に肩を竦めれば、遠くから気怠げな声が聞こえた。

「樹ー、もー帰り?」

 横目に見れば廊下側の一番後ろの席に、後ろ向きで机に腰掛ける菊地の姿があった。昨日も見たこのやり取りは御決まりなのかもしれない。樹は振り向かず端的に言った。

「部活」

 俺は垂れた頭を勢い良く上げる。見た背中は既に遠く、戸口を出ていく所。
 俺は後を追う為、慌てて帰り支度に取り掛かった。
 
 

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