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そろりそろりと忍び足。
細心の注意でドアを薄く開いて中の様子を伺えば、隙間の向こうで眠る部屋が広がっていた。
時刻は六時半。
外は朝日が昇り眩しい程の明るさ。けれどその光はカーテンに遮断され、部屋の中はぼんやり薄暗い。
開いた幅から中に身体を滑り込ませ、再び足音を忍ばせた。辿り着いたベッドに恐る恐る手を着いて、膝を立たせ上る。
端から見たら滑稽だろう、四つん這いの不恰好な姿で息を殺し進んでいたのに、
「ぅわっ……!」
シーツに手を滑らせ、バランスを崩した。雪崩れるようにベッドに倒れて、思わず声を漏らしてしまう。
マズイ、と思ったのも束の間。
慌てて起き上がる前に、二の腕を掴まれ引っ張られた。
「……どこ、……いってた……」
微かに掠れた低い声。それを吐く息に乗せ喋る。目だけ動かし樹見れば、焦点を合わせようとしてるのか、うっすら開いた寝惚け眼がゆらゆら揺れていた。
「ごめっ、起こした」
引き寄せられ、仰向けの樹の胸元辺りを押し潰すように重なる自分の体勢。重いだろうと上体を起こそうとすれば、俺の二の腕を掴む力が増した。
「いい。それより、どこ行ってた」
もう意識が覚醒してきたのか、今度はハッキリした声で喋る。そう言えば、樹って寝起き良いんだっけ。
「……トイレ、に……」
正直に告げれば、背中に腕が回された。
「黙って行くなって、言った」
確かに言われたし、その事は覚えていた。
「一応、起こそうとはしたんだ」
だから数度軽く頬を叩いてみたり身体を揺すぶってみたりしたが、樹は起きる気配を見せなかった。
「気持ちよさそうに寝てたから、……起こしにくくて」
樹の気付かない内に戻ってくれば大丈夫だと。穏やかに眠る顔を見て、このまま寝かせておこうと思った。
きっと夢の中は、不安も恐れもないだろうから。
「構わないから、もう黙って行かないで」
頭の上の声はまだ少し掠れてるのに意思の強さがあって、それだけ、譲れない事なのか。
腕の中でごめんと謝れば、樹は俺の頭をやんわりと撫でる。
「っひぁ!」
けれど、背後に回された方の樹の手が背骨をなぞりながら下降して、あろうことに俺の尻をなでた。突然の感触に驚いて、俺は素頓狂な声をあげてしまう。
「っちょ、……樹!」
やっぱり眠ってる時は良かった。起きた途端これだ、と抗議をしようとしたのだけど。
「大丈夫?」
聞こえた声に、言いかけた言葉を飲み込んだ。そんな俺に痛くない? と樹は続ける。
昨日の無理矢理な行為で動けば下半身に痛みが生じた。さっきトイレに行った時も、少ししんどかった。
けれど耐えられない程じゃない。
だから大丈夫だよと返せば、樹は安堵するように息を吐き、再び背中に腕を移して俺を抱き締めた。
昨日風呂場に居る所を見付けてから、樹の様子がどこかおかしい。
俺に触れようとする手は、時折壊れ物でも触るような戸惑いを見せ、なのに俺から全然離れようとしないんだ。
何時も俺を傍に居させたがるけど、それとは少し違う。
まるで何かを恐れているように見えたけど、……俺の体、気にかけてくれてたんだな。
「──そう言えば、熱は出てないか?」
樹のおでこに手を当てる。昨日水を浴びて冷えた身体は震えていたから、風邪を引いてもおかしくない。
「ん、大丈夫だよ」
俺の心配をよそに、返事通り樹の肌は心地好い温かさを俺に伝えてくれた。
「良かった。そう言えば樹、昔から身体丈夫だったもんな」
中学の頃、頻繁に怪我して帰って来た事を思い出す。
派手に遊んだ、とか理由は色々だったけど、その度に泣きそうな思いをさせられた。平気だって、と言う言葉とは裏腹に骨が折れてた事もあったっけ。
「……本当、良かった」
普段通りの樹に、安心した。
もし、昨日の暴力的な凶行が突発的な行動なら、罪悪感に苛まれてるのかもしれない。それで様子がおかしかった。そう考えれば、辻褄が合う部分がある。
その可能性があるなら、俺は普段通りに振る舞おう。樹の不安が少しでも和らぐように。
「朝御飯、食べに行こう」
そう切り出してみるけど、樹は反応しない。聞こえなかったのか、と俺は再び呼び掛けた。
「樹、そろそろ仕度しなきゃいけないから、朝御飯……」
「行きたくないな」
俺の言葉を遮るように、ポツリと樹は言った。
「……樹?」
独り言のように呟く声が、やけに重たく耳に響く。樹は俺を胸に抱いたまま、ゆったり上体を起こした。
「冗談だよ。行こう」
微かに笑みを浮かべながら、俺を抱く腕に少しだけど力が込められた。
……なんだろう。
何かを誤魔化されたようで、釈然としない。
(思い過ごしなら良いのだけど)
やっぱり、どこかおかしい気がする。
◇
シャツのボタンをかけようとして手を止めた。上三つのボタンの留まりが緩くて、少し力を加えれば取れそうだったんだ。
昨日無理矢理脱がされた時、糸が解れたのかもしれない。
「どうかした」
既に制服に着替えドアに凭れてた樹が声をかけてくる。背後からの問いに俺は首を振った。
「何でもないよ」
今は直してる時間はない。不安定だけど手早にボタンをかけて、ネクタイで隠し誤魔化した。帰ったら母さんに直して貰おう。
◇
ダイニングに向かえば、テーブルの上に目玉焼きとベーコンの載った皿とサラダの盛り付けられた皿、それにパンの袋が並べられていた。どうやら母さんは出掛けた後らしい。
「座ってて」
イスを引いて促す樹に、思わず有難うと従ってしまう。樹は小さく頷くと、朝食の準備に取りかかる。
俺も手伝うよ。言おうとして、止めた。今は甘えた方が良いような、そんな気がした。
俺達の間に会話らしい会話はなかった。
先に食べ終わった樹が、頬杖をつき俺を眺める。食べにくかったけど、文句言わず残りのトーストを平らげる事に専念した。
だけど食べ終わった時。
「あや」
呼ぶ声に顔を上げれば、樹は少し険しい顔をしていた。ただならぬ雰囲気に、思わず背筋を伸ばして身構える。
「絶対、俺から離れないで」
言われなくても、もう離れたりしないのに。今更な言葉にそうは思ったけど。
あまりに樹が真剣だったから俺は黙って頷いた。
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