16
目を開ければ、一面真っ暗だった。
ああ、俺死んじゃったのかな。なんて考えが過ったけど、暗闇に目が慣れてくればそこは樹の部屋。眠っていたのか。どうやら今は夜みたいだ。カーテンの隙間から漏れる月明かりが、青白く部屋を照らしている。
夢うつつに目線だけでゆるりと部屋を見渡して、気付く。
樹がいない。
「ッア゛……!」
身体を起こそうとすれば、下半身に激痛が走った。ズキンズキンと続く鈍痛は涙が滲む程だけど、俺はその痛みを歯を喰いしばって堪えて、ベッドを降りた。
痛みなんか構ってられない。
身体全体が鉛になったようだ。何かがまとわり付いてるように重い。内側からの鈍痛に加えて、歩く度に骨や筋肉がギシギシと軋む。身体中が悲鳴をあげていた。
身体を引き摺り部屋のドアを開ければ、ドアの向こうも真っ暗闇で。それはつまり、母さんがまだ帰って来ていない事を言外してた。
だけど樹は。
樹は何処にいるのだろう……。
電気を点け、俺は手摺を掴んで一段一段を確かめるように階段を降りた。眼下に見える玄関の電気も点いていなくて、階段の灯りがまるでスポットライトのように俺を照らした。暗闇に映える強い明かりは、足元に縮こまった頼り無さげな影を落として、焦燥感を煽る。
一階に着くと、俺は一直線にリビングに向かった。
ドアを開け、真っ暗なリビングを見渡す。そこには冷蔵庫のモーター音が小さく響くだけ。ドアの脇にある電気のスイッチを点けて再び見渡すけど、やはり誰も居なかった。
樹はコンビニか何処かに出掛けたのだろうか。それなら良いのだけど。
(もしかしたら……)
ふっ、と考えないようにしていた悪い予感が首を擡げた。そんな事ない、大丈夫だ、と必死で自分に言い聞かせるけど、一度考え出すと止まらなくて、相変わらず着ていたシャツの胸元を握り締める。
込み上げる不安感がジワジワと身体を蝕み始めた時。
小さな音に気付いた。
モーター音に隠れてしまう程小さく控え目な、サァサァと流れる……水の音。
──シャワーの音だ。
俺は軋む身体に鞭打って、急き立てられるようにリビングから風呂場へと急いだ。
風呂場の前に着いて、間髪入れずにドアを開けた。水の音が一気に大きくなる。開いたその場所もまた電気が点いてなくて、俺は中に入り風呂場と脱衣場を隔てる擦りガラスのドアに向かって呼び掛けた。
「い゛っ……つき、」
声が掠れる。喉に引っ掛かるようにスムーズ出てこないけど、振り絞って再び呼び掛けた。
「ッ……樹、……居るなっ、ら゛……返事、してくれ」
風呂場からは変わらずシャワーの音が響いてくる。けれど真っ暗くて、中の様子がわからない。だから余計に焦って、俺はドアをバンバンと叩いた。
シャワーの音に流されそうな、低く籠る声が返ってきた。
「……なに」
樹の声だ。
俺は張りつめていた肩の力を抜いた。良かった。また俺の考え過ぎだった事に溜め息を吐いて、それから深呼吸。
「樹、出……てきて、くれな゛い……か」
真っ暗な風呂場に向かってガラス越しに呼びかけるのは、奇妙な感じだった。
声は確かに聞いたけど姿が見えないから、本当にそこに樹が居るのか疑わしくて。まるでテレビと会話をしてるような、滑稽さを覚えた。
未だ止まぬ水の音に混ざり樹が言った。
「なに。さっきあんな事されたのに、また抱かれたい? 淫乱かマゾか……どちらにしてもあやは物好きだね」
鼻で笑いながら、俺を嘲るような言葉を言う。
だけど、その言い方はどこか投げやりで。
「話、が……あ゛るんだ」
「俺にはないよ」
「俺っ……が、ある」
「後にしてくれない」
「今じゃなきゃ、……駄目だ」
樹はまるで、俺との接触を避けてるみたいだ。突き放すような返答ばかりする。
だから、引き下がれない。
「出てきて、くれる……まで、ここから、動かな゛い」
根拠があるわけじゃない。
あやふやで不明瞭なのだけど。
今引き下がったら、樹が居なくなってしまうような気がしたんだ。
「……開いてるよ」
俺のしつこさに根負けしたのか、少し間を置いて力が抜けた素っ気ない言葉が返ってきた。
入ってこい、という事だろうか。
ぐっと力を込めれば確かに鍵は掛かってなくて、カチンッと音を弾かせドアが開いた。
本のページを捲るように開かれる真っ暗な風呂場は、不気味な程に冷ややかに見えて。
(……何だろう。何かおかしい)
奇妙な違和感を胸に覚えながら、俺は静かにドアを開けた。隙間から壁に掛けられたままのシャワーヘッドが見えれば、自然と流れるシャワーの先に視線が移って。
「なっ、……樹!」
驚きに声がひきつる。
シャワーの先に見たのは、服を着たまま膝を抱えて蹲る樹。
「樹、どっ……した……──て、冷たっ」
駆け寄れば肩にシャワーがかかる。瞬時に服に吸収され拡がり肌に伝わるのは、身体の芯から冷やすような冷水で。
おかしい筈だ。
お湯で温められてるかと思った風呂場は、ひんやり冷えた空気に包まれていたんだ。
俺は頭から水を受けてシャワーコックに飛び付き、急いで放水を止めた。水の音が消えれば、俺の弾んだ息遣いと滴る水の音が風呂場に反響した。
「……あや、濡れてる」
ほうけた声に振り返れば、髪から水を滴らせたずぶ濡れの樹が顔をあげていた。
「風邪、引いちゃうよ」
樹の言葉に一気に脱力感に襲われる。
「俺よ、り……お前の゛方がっ、先に引く、だろ……」
樹の前に屈んで向き合う。張り付き目を覆い隠す前髪が邪魔そうで、拭ってやろうと手を伸ばして。
反射的に手を引いた。
触れた樹の肌は氷になったみたいに、俺の体温を奪う程の冷たさだった。
冷水にでも触れたみたいだ。樹を触った指先が感覚を失う。だけど血液の巡りにゆっくりと熱は戻った。
その指先を見て過る疑問。
いまだ熱の戻らない樹は、一体どれくらいの時間こうしていたんだろう。
(……いや、そんなのはどうでもいい)
それより早急にやらないといけないのは。
「あっため、……ない──っぐ!!」
慌てて立ち上がれば、半身が思い出したように痛みをあげる。砕かれたように身体の力が抜けてよろけ、俺は脇にあった浴槽の縁を掴んだ。
「はっ……、……はぁ、……んっ」
少し息を整えてから、縁を掴んだ片腕に力を込めた。それからもう片方の腕を伸ばして、蛇口を目一杯捻る。飛沫を派手に散らしながら、滝のようにお湯が浴槽に流れて行った。
嵩が増せば湯気で風呂場の温度も上がり始め、俺は肩の力が抜けた。
「……少し待って、ろ……。……そ、だ……服、……脱いで…──ヒッ!」
樹の方を振り向こうとした矢先、俺の身体に冷たい物が絡み付き、背中にずしりとのし掛かった。
まるで全身に氷を纏ったみたい。
身体中の熱を一気に奪う冷たさに、小さく悲鳴を飲み込めば、鳥肌が足元から頭の天辺に駆け抜けていった。
「あや」
低い声が消えそうに耳の近くで響く。吐息まで感じる距離。
この絡む冷たさは、後ろから抱き付いてる樹の体温なんだ。
急速に熱が奪われて、身体が小刻みに震えだした。寒さに血管が収縮してるのだろう。巡る血液が、どくんどくんと音に聞こえる程大きく脈打つ。
そんな俺の首元に顔を埋め、樹が呟いた。
「ごめんね、あや」
「……ぇ……」
お湯の音に掻き消されそうな小さな声。その響きに微かな震えがあったのは、寒さのせいだろうか。
「ごめん……ごめんね。俺、すきなんだ。……あやが、好き」
俺を抱き締める腕に一層の力を込めて、樹は今更な気持ちと謝罪の言葉を繰り返す。
何がごめんなのだろう。
謝られてる意味がわからなくて、言葉だけが耳の奥でふわふわと浮いている。
「俺、俺……ごめん、……ごめんね。……あやが、すき」
樹の伝えたい事がわからない。もしかしたらそんなのはなくて、ただの独り言なのかもしれない。
だけど一つ確かな事。
樹はまだ、俺の事を好きでいるんだ。
「すき、……好き。あやが、好きだ」
痛みを与える腕の力が、想いの現れのよう。
振りほどくなんて出来なかった。
気の済むようにさせようと。
樹が望むなら、このままで良いと。
不安感を包み込んでくれるようで、痛みが不思議と心地よかったから、そう思った。
Fifth day End
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