5
メールをフリックする音が響く、そんな静寂さ。
『ごめん、今起きた。
着替えてから行くから少し待ってて』
打ち終りって一息吐いてから送信した。程なくしてメールが返ってくる。返信までの間隔からして、大した内容ではないのだろう。
けれどその内容を見る事なく、携帯は俺の手中から離れていった。
「ぁ、」
遠くなって行く携帯を反射的に目で追えば、右手に携帯を握り冷ややかに俺を見下ろす樹と目が合った。雰囲気からして返してくれそうにない。
俺は潔く諦めて、クローゼットに足を進ませた。
射るような視線を背中に感じながら、素早く着替えを済ませて。
「……行ってくる」
一言告げてドアに向う。
「あや」
「ぇ、──っあ……ん!」
声と共に腕を捕まれ、身体ごとドアに押付けられる。状況を理解出来ない内に、樹の唇が重ねられた。
「ん、……んっは」
いつもと違い重ねられただけで、唇はすぐに離れる。安堵して嘆息したのも束の間。樹の舌は首筋を伝った。
「─! ……ぃつきっ……まって!」
この儘事に及ばれる危機感に樹の胸元を押して制止を求めれば、意外にあっさりと離れた。
戸惑いながら見上げた樹は、微かな笑みを浮かべて。
「早く、帰っておいで」
俺を送り出した。
◇
ガチャリと響くドアの開く音は重々しく、腕に掛るドアの重さは鉛を巻き付けたみたいに伸掛って感じた。
いつもと変らない筈なのに。気持ち一つでこんなにも感覚に変化をもたらすものなのか。
それでも開いた隙間から差し込む明るさは、柔らかく暖かで。
その光りを纏い、すぐるは居た。
「おはよ」
すぐるは俺に気付くと、玄関前の門柱に凭れさせていた体勢を正し笑顔を向けてくる。
その笑顔はいつも通り。陽の光に負けない位柔らかで。
今の俺には、眩し過ぎた。
玄関を隔て天地に分れてるみたいだ。とても遠い世界の、まるでブラウン管の向こうの非現実的な人々のような距離を感じた。
「……綾斗?」
ドアを開けた儘放心状態だった俺を不信に思ったのか、すぐるは確認するように俺の名を呼ぶ。その声に俺は我に返り、おはようと返した。
「どうした? まだ眠い?」
「……ん、まだちょっと眠い……かも」
助け船のようなすぐるの言葉に、俺は合せて返事を返す。ともすれば、起してごめんね。と少し申し訳なさそうにすぐるが謝ってくる。
何も非は無いのに。
敢えて自ら謝るのが、自称癒し系のすぐるらしい。
「綾斗」
無意識に伏し掛けた顔を再び呼ぶ声に戻される。
上げた視線の先で、上体を屈めたすぐるがまじまじと俺を見入っていた。戸惑いながら俺は聞く。
「……ど……した?」
「暑い?」
「……は?」
聞いた問いに問い返され、俺は間の抜けな声を出してしまう。
「どちらかと言えば……寒い、けど……なんで?」
「少し肌寒く感じてるのは俺だけかなー? って」
「?」
すぐるの話しは要領を得ず。募るばかりで、疑問は晴れない。
わけが分からず怪訝な目を向ければ、すぐるは穏やかな笑みを浮かべ言った。
「熱とかない」
あ。その一言で晴れた。
「大丈夫だよ」
だから俺は、笑みを作って答えた。
「はい、これ」
ずい、と胸元辺りに差出された教科書大のビニール袋。すぐるが好きなブランドのショップ袋だ。
「忘れ物ですよ」
「あ、ああ」
忘れかけてたけど、すぐるが此処にいる理由。受け取り中を見れば、綺麗に畳まれた制服のネクタイが入っていた。窮屈だからとすぐるの部屋で外して、そのまま忘れたんだ。
「確認したと思ったけど……ごめんなわざわざ」
「いーよ。ついでだし、俺が勝手に押し掛けただけだから」
気にしないで、と笑顔を向けられる。
「っ、」
その笑顔に胸が疼いた。
すぐるは嫌な事を顔にも言葉にもあまり出さないし、いつも笑顔を絶さないから、見逃しがちになってしまう。
きっと沢山、気を遣わせているのだろう。
俺は拳を握り、掌に爪を立てる。
思い出したようにあっ、と声をあげてすぐるが言った。
「そう言えば、聞いた? 連続女子生徒傷害事件」
「……連続……傷害?」
初耳でいまいち現実味ない話に俺は首を傾げた。聞けばここ二・三日に起った事らしい。
「名ばっかで大した事件じゃないらしいけど、うちの女子生徒の何人かが絡まれて、一人病院送りになったらしいのよ」
「病院送り?!」
「犯人は分かってないんだって」
怖いよね、とすぐるは大袈裟な身震いをして見せる。俺はその先を急かした。
「その女の子は?」
「全治二週間程度の軽症らしいよ」
「……そっか」
大事に至らなくて何よりだ。と誰ともわからない子の安否に俺は胸を撫で下ろした。──と同時に、羨ましいと不謹慎ながら思ってしまう。
本当、凄く不謹慎なのだけど。
二週間で済むのなら、俺も病院送りにされたい。
だって俺には、終りが見えないんだ。
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