For one week | ナノ


 
 音の発信源は、鞄から飛び出て床に転がる俺の携帯。
 好きなアーティストの中でもその曲が一番好きだと言ってたから、使用頻度の多いメールの着信音に設定した。
 伝えたら嬉しそうに顔を綻ばせてたのを今でも覚えてる。

 そんな思い出と毎日聴いて馴れ親しんだその曲は、瞬時に相手を特定出来てしまうから、アップテンポなのに今は絶望の序曲に変わる。

 よりによって何てタイミング。
 樹の居るこの状況では最悪な相手。

 それはすぐるからのメール着信音だった。

「ぁ、……」

 随分思考に浸っていたのか。いつの間にか樹は俺から離れ、気付いた時は携帯を拾いあげていた。まずいと思った時は遅くて、ロック画面に表示されてる通知を見たであろう樹の眉間に皺が刻まれた。
 樹は無言で画面をスライドさせて操作を始める。サビの部分を歌って満足したように、音楽が止まった。無音の部屋に携帯をタップする小さな音が静かに響く。
 相手を知られてしまった以上、奪い返すのはきっと逆効果だろう。
 俺は樹の行動をただ見てるしかなかった。


「はい」

 樹は俺に携帯を差し出してくる。俺は両手で受け取り、恐る恐る樹を見上げた。

「あいつ、来てるって」

 感情のこもらない声で樹が言った。

 そのメールが誰からの物か。俺がわかっているのを樹は気付いているのだろう。
 いや、今はそれより考えるべき事。

 『来てる』って、どこに?
 疑問が沸いて、はっとした。
 まさかと過ぎる考えに、樹に向けていた視線を渡された携帯画面に落とす。差出人にはやはりすぐるの名前。件名が無いのはいつもの事。
 起きてる事を確認する言葉で始まり、昨日別れた後でメールを送ったのだろうか。返信が無い事を心配してるのが読み取れる文が綴られて。

 血の気が一気に引いて行く。

 すぐるの部屋に忘れ物をしてた、と。
 バイトに向かうついでに、届けに来た。と書かれていた。
 バレてはいただろうけど、確証は無かった筈。けど、決定的だ。すぐるの部屋に泊まった事が。

 でも、……それよりも。

 恐る恐る樹に視線を戻す。再び見た樹の顔には表情がなく、俺と目が合うと一瞬目を細め、視線を身体ごと逸すように踵を返した。

「ぇ……」

 そのまま樹は入口に向かって足を進めた。

 咄嗟の判断。
 と言うより反射的にかもしれない。

「──待って!」

 俺は叫んで、駆け出した。
 
 距離は大して離れてない。緩かな歩調の樹に追付くのは容易で、俺は追付いた後ろ姿に腕を回してしがみつく。
 勢いをつけ過ぎたのか、開き掛けたドアが押し戻されて閉まる大きな音が響いた。

「っどこに、……行く気だ?」

 息が微かに乱れてるのは、走ったせいか動揺の表れか。
 足を止めた樹の背中越しに問い掛けた。予想が正しいのなら、行かせる訳にはいかない。
 俺の問いに一呼吸分間を置いて、樹はゆったり首だけで振り返る。

「誘ってる?」

「……はっ?」

 唐突な言葉に呆気に取られている俺に、色っぽい格好だよ。と樹は続けた。
 自分の姿を確認すれば、走った風圧のせいだろう。全てボタンを外してたシャツは肩を外れ肘に掛かり、ほとんど纏っていない状態。

 俺はほぼ全裸で樹にしがみついていた。

「朝からヤりたい?」
「──ッ、」

 羞恥心に苛まれてる所にトドメ言葉。
 だけど、都合が良い。

「そ、だよ。今ここで、……しよう」

 そうすれば樹はどこにも行かないから。
 恥かしさを堪えた俺の言葉に、樹は後でねと目を細めた。

「今は先にやらなきゃいけない事がある」

 樹は俺の腕に手を重ね、絡まる腕を引き剥しに掛かった。俺は一層の力を込めて強くしがみつく。

「俺とあやの為に大事な事なんだ」

 だから放してというニュアンスで言って、樹は俺の腕を撫でた。

「……すぐる……か?」

 俺が出した名に樹の手が止まる。

「すぐるの所に、……行く気だろ?」
「……」

 樹は答えない。
 無言は予想を確信に変えた。

「俺に行かせ……」
「駄目だ」
「っ、」

 すべてを喋り切る前に、遮られて拒まれる。

「もう逃げない、……ちゃんと帰って来るから」
「駄目だ」
「……忘れ物を取って来る、それだけだ」
「駄目だ」
「っ〜」

 意思は頑なで、返答は変化なく拒絶のみ。

 だけど俺も退けないんだ。

「頼む、……頼む。これだけ聞いてくれ。……もう反抗しない、言う事聞くから……」

 だからお願いだ。と腕に力を込めて、必死に懇願した。


「あいつの名前出すなって言ったよね」
「──!」

 動転して忘れてた、昨日の約束。
 ごめんと言おうとした謝罪は言葉にならず、捻るように上体を反らした樹の手に塞がれた。
 見下ろす樹の目は黙れ、と言うように冷ややかだったから、俺は口を噤む。
 その様子に満足したのか、口を抑える手がゆっくりと離れて。

 樹は言った。


「条件がある」



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