3
樹は起きてたんだ、俺が起きるよりも前に。それで寝てるふりしてたのか。
「けど、なんで寝てるふりなんか……」
俺の疑問に樹は笑みを浮かべた。
「待ってたんだよ。あやからの目覚めのキスを」
親指の腹で輪郭を描くように、樹は俺の唇を柔らかくなぞる。
樹じゃあるまいし、そんなことする訳ないのに……。
と、そこまで思って気付いた。
樹は、樹が俺を想う気持ちくらい好きになれって言った。樹ならするのだろうその行為。
しなきゃ、いけなかったんだな。
「ごめん……、忘れてた」
顔色を伺いながら言えば、樹は目を細めた。
「二度は許さないよ」
「っ……」
笑みを崩すことなく、表情とは相容れない言葉。
そのアンバランスさが恐ろしかった。
「……ごめん」
もう一度謝れば、樹の顔が近付いてきて唇を重ねられる。それは軽く触れるだけ。樹はすぐに離れると、俺に背を向け歩き出した。目線だけで樹を追う。
樹の向かう先は入口。開け放たれたドアに触れられる距離まで近付くと、樹は手を伸ばし軽くドアを押した。
加えられた力を緩やかに消化しながら、バタンと音をたててドアが閉まる。
「これで満足?」
樹は振り返って笑みを浮かべた。それは俺が、せめてと望んだ願い。
その問いが何を意味してるのか。
作り出された密室が導き出す答えに、俺は視線を足元に落としながらありがとう、と道義上の礼を言う。落とした視界に、肌に付けられた痕が映った。
昨日これだけの数を付けれるだけしたのに、樹はまだする気なのか……。
あんな一方的な行為を。
「……いつき、……俺、……身体いたい、んだ」
反応が怖くて声が震える。拳を握りなけなしの勇気を振絞って、遠回しにしたくない意思を伝えた。
「だから?」
「っ、」
「何が言いたい?」
聞えた樹の声は冷たく威圧的で、明らかに怒りを含んでいた。
きっと、俺の真意を知っての怒りだろう。
心臓がぎゅうっと締め付けられて、早鐘のようにドクドク脈打つ。怖くて樹の顔が見れない。
窒息してしまったみたいに、俺は言葉を返す事が出来なかった。
「俺、あやの望みを聞き入れたよね」
そう言って樹は指の関節部分でコン、とドアを軽く小突く。
「ならあやも譲歩すべきじゃない?」
じゃなきゃフェアじゃない。そう雄弁に喋る樹の言葉に、言い返す度胸も論破出来る程の話術も俺にはなくて。
折れた、と言うより折れざる得なかった。
「……えっ……ちは、……する」
ほんとはしたくない。だけど拒む事は出来ないし、逃れる術も残ってないから。
「けど、……回数っ……少なくしてほしい」
俺なりの精一杯の譲歩だった。
それでもその願いが樹の許容範囲内なのか不安で、足元に落とした揺らぐ視線を樹に戻せなかった。
樹は今どんな表情をしているのだろう。返答も反応も示さない。
沈黙が息苦しくて、一秒一秒過ぎる時間が押し潰しそうな圧迫感に変わって行く。
それを破ったのは樹。
「回数減らせばいいんだね」
穏やかな声だった。
驚いて、聞き間違いかと顔をあげれば、いいよと続けられる。
「……ぇ、……ぁ?」
あまりにもあっさり受け入れられて、驚いたのと拍子抜けしたのとで、上手く理解する事が出来ない。
ほんとに? と聞けば、本当じゃない方が良いの? と返され、俺は慌てて横に首を振った。
……気紛れなのだろうか。
そう解釈しようとしたのだけど。
「回数減らせば良いだけだよね」
したり顔で言う樹の言葉が引掛かった。嫌な予感が頭を過る。
樹は佇んでいた扉の傍らから、緩やかな歩調で俺の方に移動を始める。反射的に後退ろうとしても、後ろの鏡に阻まれもたついてる間に樹は目の前に辿り着いていた。
見上げれば、笑みを浮かべ俺の頬をやんわりと撫でる。
「一回の時間が長くなるのは、構わないんだよね?」
「──!」
盲点を突かれた。それじゃ何も変わらない。
「待って、違うんだ……!」
慌てて弁明しようとすれば、樹の顔から笑みが消えて。
「何が違うの?」
低い声で疑問を向けてくる。
「ッ……だ、から……俺が言いたいのは」
俺の声は震えてて、さっきより随分小さい。足も微かだけど震えている。まるで骨の髄まで染みてしまったみたいだ。
樹の変化に、全身が反応を始めた。
それでも、引き下がれない。だから言葉を続けようとした時。
この場には不釣合い過ぎる、軽快な音楽が部屋に響いた。
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