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樹の部屋を数歩進めば自分の部屋。ドアノブを握り、音を立てないよう慎重に回す。それでも開ける時にキィと小さく音が鳴ってしまい、慌てて後ろを振り返った。
樹の部屋からは物音も、人の気配すらしない。ほっと胸を撫で下ろして、──気付いた。
……俺、昨日も同じ事してた。
昨日は俺の部屋の中に樹が居た。
まさかだよな。
居る訳ない。だって樹は部屋で寝ていた。俺はそこから抜け出して来たんだ。
大丈夫。大丈夫。
そう自分を宥めても、……疑心暗鬼。
開けたドアの隙間から中をそっと覗き見た。部屋は昨日のまま。ベッドのシーツは乱れ、肩に掛けてた鞄が足元に落ち、昨日の惨事をありありと物語る。その有り様に俺の胸に複雑な気持ちが沸き上がる。
けれど、樹は居ない。
その事にやっと安心して、俺は部屋に足を踏み入れた。
「……はぁ」
たとえ惨状でも、やっぱり自分の部屋。少しだけ緊張が解れ落ち着く。
閉めると音が鳴るから、ドアは閉まるギリギリの所で留め、早々に服を脱ごうとボタンに手を掛けて、
「っなんだこれ……」
三個目のボタンを外した時、思わず声を漏らした。
肌に色濃く残る鬱血の後。……樹のキスマークだ。
付けられたのは知ってた。だけど、余りにも尋常じゃない数に動揺せずにいられない。
姿見に駆け寄って確認すれば、首の数個に始まり鎖骨や胸元辺りまで、見える範囲だけで片指分は軽く超えていた。
まさかと思い残りのボタンを外して見れば、首元ほど多くはないけど腹や果ては太股にまで点在し、それら全てすぐに消えそうもない程の痕となっていた。
いつの間にこんなに……。
いや、付ける機会なんて昨日は幾らでもあった。
風呂に入って終わるかと思った行為は、風呂場でも及び、その後も意識飛ばすまで繰替えされたんだ。
今ある数でも、少ないくらいだ。
「綺麗に付いてるでしょ」
「っ!」
突如背後から聞えた声。足の付け根辺りを確認して少し屈んでた体勢を、いきなり後ろから抱き締められた。
(そんな、……寝てたんじゃ──て、)
「っわ、……わわっ」
抱締められた勢いのまま体重を掛け伸掛かって来られ、俺は慌てて前の姿見の縁を掴んでバランスを保った。
チラリと鏡越しに伺い見た伸掛かる人物は、やっぱり樹。
目が合うと、樹は目を細めて言った。
「俺に黙って勝手にどっか行くな」
どこかに抜け落ちたように抑揚はないけど、横暴な物言いが相変わらず樹らしい。
朝だからだろうか。低い声が一層低く、微かに掠れていた。
「ご、めん……寝てたから、起こすのは悪い、……て思って……」
極力控え目に口にしたのは、半分本音で半分言い訳の謝罪。
起きない事を願った。
「起こしてくれて良いよ。こんな風に」
「……っぁ、──んぁ!」
樹に背を向けてた体勢を肩を掴まれ強引に百八十度反転させられ、間も置かず唇を重ねられた。
「……んっ……ふ!」
すぐに割り入ってきた樹の舌は息吐く暇なく俺の舌を絡めとって、激しく口内をかき回した。慣れない上、寝起きの鈍さも手伝い上手く息を吸えなくて、俺は苦しさに顔を顰めた。
だけど抵抗はしない。昨日で痛感させられた。
樹に抵抗する事は意味を成さないし、下手すれば現状すら悪化させかねない事を。
だけど、時と場合がある。
「んんっ! ぃつっき、……ん、やめっ─んぅ!」
角度を変える時に生じる少しの自由で、俺は慌てて制止を訴えた。
樹の肩越しに見た部屋のドアが、大きく開いてるのに気付いたから。
もし母さんが居て、タイミング悪くこんな所を見られでもしたら……。
母さんが居るか居ないかわからない。けれど。だからこそ過ぎる、そんな最悪な予測。
「ぃつきっ、……ん! だっ……めだ! ……っ母さんに、見つかっ…たら、たぃへん……だからっ!」
幸い手の自由は利く。キスに翻弄されながら、俺は樹の胸元を必死に押した。押し退ける事は無理でも、発言の自由を確保する距離なら作る事が出来る。
「頼む、……樹! せめてドアっ……ドア閉めてくれ……!」
距離を作り、俺は懸命に樹に訴えた。
「母さんならさっき出掛けたよ」
不意に聞こえた言葉。
「……ぇ……」
意味を理解して、樹を押していた力が抜ける。樹の迫る力も無くなっていた。
「……いない、のか?」
今だ至近距離。問い掛ければ、ああ、と目の前で樹が頷いた。現状打破された訳じゃないけど、最悪な事態には陥らずに済む事に安堵の息を吐いて、──そこで気付いた。
「さっき、……て」
気になったのは樹の言い方。それはまるで。
「随分熱い視線が注がれてたけど、」
「……ぇ」
「俺に見惚れてた?」
樹はしたり顔で言った。
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