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ギシリとスプリングを鳴らし、樹がベッドに上がってくる。
逃げなきゃ。
反射的に思いすぐ様行動に移そうとしたけど、投げられた衝撃が微かに残る体は鈍く、たやすく樹に腕を捕えられてしまう。
「! 樹、放──ッぅあ゛!」
手を振り解こうと抵抗すれば、腕を掴む力が一層強くなった。ギシギシと骨を軋ませるほどの握力が掛かり、折られるんじゃないかという恐怖を覚える力に、冷汗が頬を伝った。
掴む力を緩めず樹が言った。
「放せばまた、俺じゃない奴の所へ行くの」
「ぅ゛っ……な、……に?」
痛みに顔を歪ませる俺に、樹は距離を縮めて来ると。
「昨日何人とシた?」
耳元で囁いた。
言葉の意味を理解出来ず、俺は樹に疑問の目を向けた。
「なに……言って……」
「それとも一人? 一人とヤッてこんなに帰りが遅くなったの?」
「ちょ、……待ってくれ……」
何か誤解されてる。
「樹、俺は樹が考えてるような事はしてな──」
話してる最中に視界が転じた。直後に背中に柔らかな衝撃が走る。目の前には樹が居る。それは変わらない。だけど、樹の背後の風景が先程までと違っていた。
樹の後ろには毎朝見るモノクロのポスター。
俺は樹に押し倒されていた。
樹は薄い笑顔の中で冷やかに俺を見下ろしながら、低い声音で言った。
「言い訳は聞く気ないよ」
その姿は内に轟く怒りを顕在させているようで、誘発される恐怖に身体が震え出す。
だけど今は引く訳にはいかない。
話をするために帰って来たんだから。
「違うっ、言い訳じゃないんだ! 頼む、話し聞い──ん゛んっ」
懸命に訴えるが、口を樹の手で塞がれ強制的に遮られた。
樹の笑みがロウソクの炎を吹き消したように一瞬で消える。
「聞えなかった? 言い訳は聞かないって」
変わらない冷やかな目は、言葉に迫力を宿した。
「震えてる」
俺の口を塞いだまま、樹はもう片方の手を俺の手と絡ませ口元に引き寄せる。そして寄せた俺の手の甲に軽く唇を這わせながら、視線を俺に戻した。
「怖い? 俺が」
口を塞がれているから、答える事は出来ない。多分、塞がれてなくても俺は答えられないだろう。
言葉に代わるよう、体の震えが一層増した。それは絡められた手から樹にも伝わっただろう。
樹が口元だけの薄い笑みを浮かべた。その笑顔に悪寒が走る。
樹を心底怖いと感じた。
どうして樹はこんな風になってしまったのだろう。前は本当に仲が良くて、何でも話し合えた。だけど今は俺の言葉に耳を傾けてもくれない。
微かに開いた指の隙間から、俺は震える声で疑問を向けた。
「……なんで、樹……変わっちゃったんだ?」
樹は浮かべていた笑みを再び消して言った。
「先に変わったのはあやだよ」
返ってきた言葉は、疑問を一層募らせる。
先に変わったのは、……俺?
意味がわからず混乱してる俺をよそに、樹は続けた。
「泣いても許さない」
言われて初めて自分が泣いているのを知った。恐怖と悲しみが溢れたのだろう。
「──はっ……んぅ!」
口を塞いでいた樹の手が離れ、すぐに樹の唇に塞がれる。
「んっ……ゃは! ……んんーっ」
樹の舌が口内に侵入して、中を激しく掻き混ぜる。その激しは芽生えた恐怖を増幅させるのに十分だった。
再び腕を捕えられ、体の上に樹が覆い被さっている今の状況では、逃げたくても逃げられない。
「やだ、……んん! たすっ……んぁ!」
自力ではどうしようも出来ないから、助けを求めた。冷静に考えれば、それは無駄な事だとわかるのだけど。
求めずにはいられなかった。
誰でもいい、誰が助けて……。
誰か……!
「っ、……すぐるっ……!」
樹の動きがピタリと止まった。それからゆっくり、俺と距離を取って体を起こす。
すぐるの名前が出たのに意味はなかった。さっき迄近くに居たせいだろうか。ただ顔が浮かんで、言葉に出た。
それだけなのだけど。
「……また、名屋?」
「っ、」
それがまずい事だと気付いた時は遅かった。
「あ──」
樹の大きな手が俺の頬を包み、強引に顔を引き寄せる。上半身だけ中途半端に起き上がる体勢になり、少し苦しい。だけど目と鼻の先に樹の顔があって、苦しさを気にしてる余裕はなかった。
「昨日、名屋の所に行ってた?」
答えられなかった。どう答えて良いかわからない。
樹はすぐるの事を良く思ってないから、正直に答えたら火に油を注ぐ結果にしかならない気がした。
「名屋に抱かれてきた?」
だけどその質問だけには懸命に首を振った。それは否定と共に、前の質問を肯定してしまうだろうけど。
それでも、これ以上の誤解は増やしたくなかった。
「……ねえ、あや」
少し間を置いて、口を開いた樹の声は酷く穏やかだった。それはとても、嫌な予感を過らせる。
樹は口端を上げた。
「名屋が居なくなれば、俺だけを見てくれる?」
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