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気付いたのは鼻を掠める匂い。頭まで掛る布団からもぞもぞと顔を出し、部屋に充満する香りに鼻を鳴らした。
「……いいにおい」
眠い目を擦り辺りを見渡せば、そこは見慣れぬ部屋だった。
ああ、すぐるの家に泊まったんだっけ。とぼんやりと思い出していれば、柔らかな声が聞こえた。
「やっとお目覚めですか?」
声の聞こえた方に顔を向ければ、食器を持つすぐるの姿。
「おはよ」
「……はょ」
笑顔で言われた挨拶に、俺も笑顔で挨拶を返す。その返事にすぐるは一層の笑顔で頷くと、部屋の真ん中に置かれたガラスのローテーブルに食器を並べ始めた。
「朝メシもうすぐ出来るから、顔洗ってきな」
その言葉で部屋に充満するのは朝ご飯の匂いなんだ。なんて的外れな事を考えていたら、ほら、と食器を並べ終わったすぐるにタオルを差し出された。
俺はまだ残る眠気に、ぼーっとタオルを見つめる。
「見てないでその寝惚け顔洗って来なさい」
何だか母さん化してるすぐるにタオルを押し付けられる。
「……ぁーい、」
気の抜けた返事をしてから気だるい体を起こし、一度大きく伸びをして洗面台へと向かった。
今日が土曜日で良かった。
覚束ない足取りで歩きながら改めて思う。
学校に行かずに済むから、準備をする為に家に帰る必要はなかったし、物事をゆっくり考える時間も出来た。
そんな所だけは運がいいのかな。そう考えれば、自然と苦笑いになっていた。
思考を巡らせていれば、いつの間にか洗面台の前。
鏡に写る顔は寝惚け顔なせいか何だか不細工。その顔を引き締める為に水を掬い、顔を洗った。
「──っ、」
つっっ……めた!
ばしゃりと勢い良く顔にかけ過ぎたか。予想外の冷たさに一気に目が冴えた。冬の冷水に比べれば生温いけど、寝起きには堪える冷たさだ。
さっき受け取ったタオルで顔を拭いて、用意されてた真新しい歯ブラシで歯磨き。……うう、ミント系の歯磨き粉は寝起きにキツいよすぐる。
洗顔と歯磨きのお陰で目は覚めたけど、それでも身体がまだ起ききれてないのかもしれない。歩く足取りはふらふらだ。
そんないまいち覚束ない足取りで戻って、
「……すごい」
俺は思わず感銘の声を漏らした。
ローテーブルの上に並べられた二人分の朝食。それは教科書に載りそうな朝ご飯。白飯に始まり、味噌汁、焼き魚、野菜炒めに漬物まで用意されている。
「普通の高校男児はこんなの作れないって」
少なくても俺は作れない。
「伊達に一人暮らしはしてませんから」
俺の言葉に少し照れ笑いをするすぐるは、実は家から学校が遠いからと学校の近くにマンションを借りて一人暮らしをしていた。
そのお陰で今回の泊まりの話もスムーズに決まったのだ。
「理想の朝食って感じ」
両親共に朝から晩まで仕事で留守がちだから、我が家の朝は、トーストやサラダといった簡単な物が多い。朝食なしもザラだ。だからこういう『朝食』て感じの朝食には殆んど縁がない。憧れ。
それだけに目の前に出された感動の大きさに自然と顔が綻んでしまう。
「そう言って貰えれば手間掛けた甲斐があるよ」
笑顔で言われたすぐるの言葉が引っ掛かっる。手間を掛けた? いつもの朝ご飯は違うのか? 聞けば、まさかと言いたげにすぐるは手を振った。
「綾斗の為に作りましたから」
「俺の?」
「もう具合悪くならないように」
変わらぬ笑顔で言われたのは昨日の事だとわかった。俺の体を気遣って作ってくれたのかと思うと、感動も一入だ。
「俺、死ぬほど不味くても全部食べるよ!」
感動からの頑な決意を主張した。それ程にすぐるの気遣いに感動を覚えたのだ。
だけど、そんな主張にすぐるは苦笑いを浮かべる。
「……なに?」
「いえいえ、お口に合えば宜しいのですが」
聞いた不満を流され、目の前の物を勧められる。煮えきらなさが残るけど、何より今はお腹が空いていた。
「いただきます」
だから勧められた物を素直に戴く事にした。
「…うまい…」
溢れる様に無意識に発した言葉に、自分で少し驚いた。
けれど、それ以上の驚き。
「めちゃくちゃおいしいんですけど」
「あんがと」
「いや、あんがとじゃなくて」
すぐるの家に来るのは初めてじゃないが泊まりが初めてな事もあって、今まですぐるの手料理を食べる機会はなかった。何でも器用にこなす奴だけど、まさか料理上手だなんて考えた事なかった。男は料理下手なものだと、固定観念の様にあったし。
あまりの美味しさに、驚きと感動で反応がわからない。
それでも。気持ちを例えるなら。
「俺すぐるの子供になりたい」
俺の発言に、すぐるは何ソレと笑う。でも、それはこっちの台詞。
「何でこんなにおいしいんだ?」
「伊達に一人暮らししてませんから」
一人暮らしをすればこんな上手く作れるようになるものなのか? ご飯の炊き加減から味付けまで全て文句なし。しかもドドメが。
「なめこの味噌汁!」
何を隠そう、味噌汁の具はなめこが一番好きなんです。だから自然と声が弾む。そんな俺に前に言ってたからね、と俺すら忘れてる事を言ってすぐるは笑った。
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