7
樹の居る前戸口とは逆の、後ろの戸口から教室を出て保健室に向かおうとした。クラスメイト達が帰って来たのだろう、進行の逆方向からにぎやな声がして、つられて振り返りそうになる。
だけどその気持ちを押さえ、俺は全力で走った。
軋む体に鞭打つ行為すら構わない。今は何も考えたくなかった。
思い出すと痛すぎて、離れない。――さっき見たすぐるの顔が。
驚いた、少し悲しげなすぐるの顔が、焼き付いたみたいに頭から離れなかった。
樹に見られてるあの時、触れられる訳にはいかないと思った。
怖かった。
でもそれは、すぐるを大事に思うより樹を優先させてしまったと言う事で。
一番の友達なのに。大切にしたい親友なのに。俺はすぐるを、拒絶してしまったんだ。
どんなに理屈を重ねても、後悔しても、それが事実だった。
◇
保健室に着いて最初に迎えられたのは、戸に貼られた紙に書かれて『不在』の二文字。
その文字通り保健室には先生が居なかったから、俺は勝手にベッドで休ませて貰う事にした。
皺一つ無い、真っ白なシーツのかけられた二台のベッド。俺は手前のベッドに潜り込み横になる。
俺しか居ない部屋は当たり前に静かで。
──チ、カチ、カチ、カチ。
周りをぐるりとカーテンに仕切られ、一切の視覚情報を遮断されたその場所では、時計の秒針が進むだけが大きく冴えて響いた。
『カチ、カチ、カチ、カチ、』
頭の中に音を反芻させ響かせる。
気を弛めると考えに飲まれて、込み上げるモノが溢れてしまいそうだったんだ。
『カチ、カチ、カチ、カチ、』
ひたすら刻むその音だけに神経を集中させた。
『カチ、カチ、カチ、カチ、』
今は何も考えたくない。
全てをなかった事にしたくて、
『カチ、カチ、カチ、カチ、』
眠ってしまいたかった。
『カチ、カチ、カ──…
…─チ、カチ、カチ、
作る、ではなく、聞こえる秒針が進む音。
夢を見てるんだな、とふわふわした感覚にそう思った。
「綾斗」
聞こえた声は何故だろう。とても温かく懐かしい。目を開ければ穏やかに笑うその人がいて。
「すぐる」
名前を呼べば、にこりと微笑んだ。
その微笑みはいつもよりも優しくて、胸の傷を癒すみたいに染みたから、俺はごめんと言った。すぐるは微笑んだまま何が? と返してくる。
その問いに小さく首を振り何でもないと言えば、すぐるはうんと頷く。
ああ、わかってるんだなって思う反面。
何事もなかったのかとも思う。
そんな都合の良さに今は浸っていたかった。
「そろそろ起きない?」
言われた言葉に首を振る。
「起きないと帰れないよ」
「……家、帰りたく……ない」
「そっか、」
少し沈黙の後。それなら、とすぐるは言った。
「俺ん家来る?」
その申し出に少し考え、小さく頷いた。
「それもいいかも……」
そう一言残し、俺は再び瞼を閉じた。
「こらこら、また寝ないの」
「──っぇ、」
グイッ、と腕を引かれ上半身を起こされる。俺の腕を引く腕の先の人物は、さっきまで夢で見てたすぐる。
腕に微かに生じた痛みに、今は現実なんだと理解した。
「夢から、出てきた……」
覚めきらない頭で呟けば、まだ寝惚けてる?と笑われながら黒い何かを渡された。反射的に受け取ったそれは俺のショルダーバッグ。
いまいち状況が呑み込めず、視線をすぐるに向け見詰めた。
「俺ん家来んだろ?」
「……ぇ?」
…話まで夢から出てきてる。俺まだ夢見てる? 頬を軽く叩いてみれば、微かに生じた痛み。やっぱり現実なんだ。
「……今、何時?」
「三時……半過ぎかな」
だから帰りの話が出てるんだ。てか、俺六時間近く寝てたのか…。
まだ目覚めきらない頭でそんな事を考えていたけど。
「やっぱりやめる?」
お泊まり。と続いたすぐるの言葉に脳が覚醒していった。
家に帰れば、多分、……昨日みたいに……。
「っ……」
考えたら身体が震え出した。
「……俺」
「ん?」
「……」
すぐるは優しいから、それが迷惑だとしても言わないだろう。例え今日それで済んでも、毎日出来る事じゃない。
それに、そんなんじゃ根本は解決しない事もわかってる。
それでも、怖くて。
「行く」
俺は、逃げた。
second day end
prev / next