For one week | ナノ


 
「いたっ……え?! ……ちょ、樹痛い! なにっ?!」

 掴んだ俺の腕を無遠慮に引き、樹は出口に向かいながら呟いた。

「授業が始まる」

 振り向く事なく告げられた樹の言葉に、俺は目を見開く。

「っま、……待ってくれ!」

 足に力を入れて踏ん張り、引かれる力に抵抗した。その俺の行動に、足を止め樹は怪訝な顔で振り返る。

「……その、……まだトイレ……済ませてない…」

 俯いて小さく喋る。見られたら嘘がバレてしまいそうな気がしたからだ。
 嘘を吐いてでも、このまま樹と化学室に行く事は避けたかった。腕を引かれ一緒に教室に入ったりなんかすれば、折角無かった俺への疑惑が向けられかねない。

「俺、後から……行くから……」

 そう言って、樹に掴まれた腕が解放されるのを待つ。一向に樹の手が離れる気配はない。
 それでも俺は顔を上げる事もこれ以上の抵抗も出来なくて、ひたすら待ち続けた。

 暫くの沈黙の後、動いたのは樹の口。


「手伝ってあげようか?」

 上からの言葉に思考が止まる。
 思わず下げていた顔を上げれば、邪笑を貼り付かせた樹の顔があった。

 ドアを向いていた樹の体が反転する。そして、進めた歩幅を戻すように、ジリジリと俺に近付いて来た。

「い、いっ……いい! 一人で出来る……から!」

 掴まれてない方の手で樹の胸元を押して、これ以上の接近を阻止しようとした。再び陥った危機的状況に涙が出そうになった。
 何とかこの状況を回避しないと…!

「それにっ、もう行かないと……授業に遅れるし、……化学の先生時間に厳しいから、下手したら内申書に響き兼ねない……! 何より、二人揃って授業遅れたら……不自然だろ……?」

 何とか気を変えさせて化学室に向かわせようと、俺は焦る頭を働かせそれらしい理屈を並べ立てた。


「冗談だったんだけど」
「……へ……―─あっ」

 どこか苛立ちを含んだ声色。その声が耳に届くのと同時に顎を掬われ上を向かせられ、目尻を舐めらた。

「不自然……ね」
「っん─―!」

 それから再び唇を奪われた。それは先ほどと一緒で、触れるだけで直ぐに離れる。
 離れた後微かに唇に残されたしょっぱさに、自分が泣いていたのだと気付かされた。
 
「あやはまだ自覚が足りないみたいだから」

 再び樹の顔が近付いてくる。今度は顔を過ぎて、耳元で囁かれた。

「帰ったらちゃんと教え直さないと、……ね?」

 何を言わんとしてるのか。抽象的な物言いでもわかった。それは柔らかな喋りとは真逆な事。反応するように小さな震えが起こる。

「折角あやが心配してくれた事だし、先に行ってるよ」

 掴まれていた腕がやっと離された。腕には痛みが残り、今だ掴まれてるような錯覚を覚える。
 それだけ強く握られていたと言う事だろう。
 樹は再び背を向けドアに向かって歩を進める。今度は一人で。ドアノブに手をかけた所で動きを止め、振り返った。

「授業遅れんなよ」

 ニヤリと笑い、残した言葉は嫌味だろう。すぐるが教室で俺に掛けた言葉と同じ言葉だった。

 ドアを開く音と閉まる音。それから小さくなって行く足音。
 その音を耳に知覚しながら、俺は床に崩れ落ちるように座りこんだ。

 そこがトイレの床だと言う抵抗も、汚いなんて気にする余裕も無かった。



 本当は内心で分かっていたのかもしれない。
 産まれた時から一緒に居たから、樹の性格は熟知している。
 樹の気持ちは、ぶつける様に真っ直ぐ向けられている事を。
 それでもどこかで認めたくなくて、必死に否定する材料を集めた。その可能性を消し去った。だけど事実は変えられないのだと、揺らぐ事はないのだと思い知らされた。

 昨夜囁かれた言葉全てが、真実なんだと。

 遠くに授業が始まるチャイムが聞こえても、俺は動く事が出来なかった。





「綾斗!」

 教室の戸を少し乱暴に開ける音と共に呼ばれたのは、授業終了のチャイムが鳴って少ししてから。それは一番に教室に戻って来たすぐる声。
 結局授業に出る気力も起こらないから、教室に戻って自分の席に着いていた。そんな俺を見付けると、すぐるは足早に駆け寄って来た。

「よかった……、全然来ないから、変な親父にでも誘拐されたかと思ったよ」

 おどけたように喋るすぐるの息は微かに乱れていて、走って来たのだとわかった。
 思い上がりかもしれないが、多分俺の為なのだろう。
 そう思うと、申し訳ない気持ちで一杯になる。


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