無知の幸せ



僕の家の隣には主が住んでいる。

いや、正確に言えば、元々刀だった時代に持ち主として親しくしていた主が、生まれ変わった姿で住んでいる。


彼女はとある春の日に、僕の家の隣に越してきた。どうやら三人家族の様で、荷物はそう多くなかった。
引越しの慌ただしさに気がついて、その家に面している窓を開ける。プライバシーが心配になる様な距離感の窓は、頑張って手を伸ばせば、その家の窓枠に手が届きそうな距離だった。

二階に面したその窓が、彼女と出会うきっかけ。


バダバタと忙しそうな隣の家はダンボールで埋まっていく。窓からも、ダンボールしか見えない。いつもは申し訳ないから閉めていたカーテンも、開けても大して変わらないから開けたままにした。


それから少しして、何気なく隣の家を見ると、ダンボールに埋もれるように女の子がぼーっとしていた。何もないであろう天井を見ている。

その横顔は酷く懐かしくて、今まで自制していた何かがふと途切れたのを感じた。その顔は近侍として隣に控えていた時と、何も変わっていなかった。


思わず窓の鍵に手を伸ばして、ふと手が止まった。
止めたのは紛れもなく僕自身。
この選択でいいのかと、後悔しないのかと、納得できるのかと心が囁く。
納得できない事はするべきでは無い。彼女に日頃言っていた言葉が返ってきた。

思わず手を引っ込める。じんわりと湿った掌が気持ち悪かった。

ギュッと拳をにぎる。爪が食い込んで痛みが頭を覚ました。

そして、



__窓に付いている鍵を開けた。

きっと、このままだと一歩も前に進めないと思ったから。踏み出す一歩は恐ろしく卑怯に感じた。




僕はもともと刀剣だった。新々刀の源清麿。
周りの転生した仲間も何故か多かった、神だった事とかもあるのかもしれないね。現代に転生するまでに何があったかは言わないけど、人間はいつか死ぬもんだ。

そんなこんなで、生まれ変わった刀の中には主を忘れられない者もいた。今は物ではなく、者だというのに。ついに未練がましい者が可能性に掛けて主を探し始めた。昔と今の踏ん切りがつかないのは、主を見つけたとしても迷惑だ。覚えているかも分からないのに。

主がいない、見かけた、別人だった、きっといるはずだ、きっと。
通知のうるさいスマホを伏せる日々が、続くと思っていた。

それは僕にだけあっけなく終わりを告げた。
彼女が越してきた。それだけのことがこんなに世界を変えた。


彼女は、主だった。だが、僕は者だった。
そして、彼女は審神者じゃなくて、だだのひとだった。



窓を開けたら、彼女も開けたタイミングだったらしい。同時に窓を開けるなんて事をキセキと言っていいのか分からないけど、小さなキセキに思わず笑った。
初対面だけど、久しぶり、なんて言いかける口を無理やり閉じた。



彼女は覚えていないようだった。
彼女は彼女であり、審神者ではなかった。
だけど、彼女は人間であったし、今もそうだ。
そして、僕は物から者になった。


毎日のように、主は今日も見つからなかったとスマホに通知が来る。彼らは気持ちは物のままらしい。彼女の人生が新たに始まっている事なんか、まるで考えていない。


主を見つけたが、彼女は審神者じゃない。
人として今度こそ普通を生きている。それを壊すわけにはいかない、壊させない。僕だけが知っている秘密でいい。彼女の平穏は、何よりも儚く、大切だ。



___スマホの電源を切って、引き出しの中に伏せてしまった。きっともう、一生見ないだろう。

そして、今日も窓を開ける。


「こんにちは」
今世、挨拶をする''物"は、僕だけで、彼女は僕の一番の秘密。
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