ぬかづけ。


シャッキリと目を醒ましたものの、脳が活性化する迄には、幾分か掛かった。
つまり、現状を把握するまでに、少々の時間を要した。

まず視界から捉えられたのは、天井が明るい、ということ。
真っ白だ。
いや、もっと正確に描写するとしたら、天井が日の光を反射して、暖かい白さで輝いているというか。
分かりやすく、『朝だ』ということが、寝惚けた頭でも理解できた。
シーツに隠れた腕や脚を、先端に向けて軽く伸ばしてみると、『よく寝た』というしみじみとした実感が、身体中を満たしていった。
こんなに爽快な目覚めは、一体何年振りだろうか。
身体が休まった充実感が、見知らぬ場所にいるという不信感を、遥かに凌駕していた。

ゆっくりと深く、深呼吸。
鼻から息を吸って、肺の隅々まで、徐々に、空気を満たしていくと、肌を直接覆うシーツが持ち上がる。
日光の暖かい香りと、何か別の、温かい、におい・・・。
息を鼻から抜きながら、そのにおいの正体を、緩まった頭で考えていると、

トントントントン、

という、木を軽く叩くような、ノックするような、そんな小気味の良い音が、耳をくすぐってきた。

うん、いよいよ俺の部屋ではないし、しかも誰か他の人間がいる。
そう結論を出して、身体を起こした。

お世辞にも、広いとは言えない部屋だけれど。
家具といえば、端に寄せられたこのベッド。
部屋の中心には、窓に背を向けた布張りのソファと、フカフカと毛足の長い円形のラグの上に置かれた、小さな木製のローテーブル。
ベッドと向かいの壁には、ちょっとした箪笥とか本棚とかが、小型テレビを乗せる台を挟んで、並んでいるくらい。
家具やフローリングは、基本的に明るい木の色をしていて。
そこかしこに、小さな観葉植物や、色鮮やかな切り花なんかが飾られていたりして。
狭いけれど、光がよく入って、ほっこりと暖かな雰囲気のある部屋だった。

この部屋と、その向こう側を仕切るためにある、硝子格子の引き戸は開け放たれていて、その奥には玄関と、キッチンが見えて。
ニットとタイトスカートの上からエプロンを着けた女が、そこで背を向けて立っていた。


ああ、そうか。
昨日は、この女を抱いたんだっけ。


そんなことをぼんやり考えながら、ベッドからのっそりと這い出た。

脱ぎ散らかしたはずの俺の服は、ソファの上に、丁寧に畳んで置かれていた。
ボクサーに脚を通して、パンツとプルオーバーだけ着てしまう。
窓から入る日の光が、黒い服をじりじりと温めて、気持ちが良い。
改めて、両手を上げて、ぐぐ、と背伸びをした。

そしてようやく、気が付いた。
この部屋に立ち込めていた、温かいにおいの正体。
自分の家じゃ、長いこと、かいでいなかった香り。
白いご飯が炊ける、ふくよかな香り。

自然と足はキッチンに向いた。
俺のコンパスで2、3歩も歩けば、部屋の敷居も跨げてしまう。
キッチンの床を踏み締めると、フローリングが微かに軋んだ。
足の裏に、ひんやりとした感覚が伝わってくる。

居間に比べると、こちらは光が少なくて、空間が青く見える。
しかしながら、湯気があちこちからモクモクしていて、いいにおい。
俺の真横には、さっきからおいしいにおいを出している張本人である3合炊きの小さな炊飯器に、食器やなんかが入っている棚の類が、奥に向かって並んでいて。
その向かいに冷蔵庫、流しや、食器の水切りカゴにスペースの半分を占拠された作業台。
女が立っている火元は、ガステーブルを台にそのまま乗っけたヤツ。
流しやコンロがくっついた壁には、目線の高さに横長の窓が嵌められていて、淡い光を招き入れる、レースのカフェカーテンがぶら下がっている。

その横にすぐ玄関がある。
女物の靴を6足も並べたら足の踏み場もなくなりそうな三和土を、きちんと並べられた俺のサンダルが占拠している。
靴箱なんかなくて、三和土の端にちょこんと設置してあるラックみたいな物で、靴を縦に積んで収納してあった。
黒の革の、ヒールが細くも高くもないようなパンプスとか、ベーシックな白いスニーカーとか、フラットシューズとかサンダルとか、そんなものが納められていて。
靴はよく手入れしてあるように見えるし、小さいけれど玄関マットも敷かれていて、狭いながらもきちんと掃除が行き届いた玄関だった。
その横にはまた扉があるけれど、閉まっていて中は見えない。
ただ、俺の隣、炊飯器と逆隣になる訳だけど、洗濯機の前に、タオルが干してあるステンレスのスタンドがあったりするから、扉の内側には、洗面や風呂があるのだろう。

狭くて小ぢんまりしている部屋だけれど、綺麗に、愛情深く使っていて、なんていうか、日々を丁寧に暮らしているんだな、という印象だった。

女がかちゃかちゃと音を立てているので、その手元を背後から覗き込む。
おたまに乗せた2色の味噌を、菜箸で溶いている所だった。

「お味噌、2種類使うんだねぇ」
「アッ!は、お、おはようございますっ」

肩を大きく震わせて振り向いた女は、俺が間近に立っていたことで、身体がぶつかりそうになって硬直したり、目をまん丸にしたりクルクル回したりして、忙しない反応を見せた。

「ああ、ごめん、驚かせちゃったかな、」

そう言えばこの子、シロウトだった。
まあ、部屋の感じからして明らかにそうなんだけど。

俺としては、最早癖のようなものなのだが。
唯でさえくノ一連中からも、当たり前のように気配を消すなと、毎度文句を言われて来たというのに。
一般の人間ならば、なおさら驚いてしまうものだろう。
最近はシロウトの子を相手にすることも少なかったから、すっかり気を遣うことも忘れてしまっていた。
悪いことしたな、なんて思いながら、頭をポリポリ掻く。

「ごめんネ?びっくりした?大丈夫?」

思わず背中に手を添えて、顔を覗き込むと、ふわりと、石鹸の香りがした。
網目の細かいのニットの感触が、指先から伝わってくる。
さらっとしていて柔らかで、薄い。
温かな肌の気配を、容易く感じられる程に。

「だ、大丈夫です。今、お味噌汁、作ってました、」
「何の味噌汁?」
「蕪です。蕪と、蕪の葉っぱと、お豆腐と、油揚げです。」
「うまそうだねぇ」
「あの、よかったら、朝ご飯、召し上がって行ってください、」
「え、いいの?」
「はい、大したものはお出しできないんですけど・・・。ご飯も、多めに炊きましたので、」

もしよかったら、
そう言って、薄化粧の女は微笑んだ。

「お苦手なものとか、あります?」
「うーん、特には。甘過ぎるのとか、脂っこいのはちょっと苦手かなあ、」
「わかりました。もうちょっと、待っててくださいね。あ、」

洗面所、良かったら使ってください、
そう言って、開かずの扉に目配せをして、女は微笑んだ。
再び味噌汁に専念し出したので、素直にお言葉に甘えることにする。

ドアノブを回すと、そのガチャリという音が、浴室内に反響した。
右側にトイレ、真ん中に洗面台、左に浴槽というユニットバススタイル。
決して広くはないけれど、浴槽側の壁には窓が付いていて、しっかりと換気ができて、光も入る造りだ。
浴槽や、何となく端に寄せられているシャワーカーテンが、濡れている。
女は一足先に起きて、シャワーまで浴びたらしい。
自分が、その気配にも音にも気が付かなかったという事実に、半ば驚愕し、それと同時に呆れてしまう。

ドアを閉めて、用を足す。
女の子の部屋だしな・・・、なんて気を使ったりなんかして、水を余計に流して、消音なんかしてみる。
次に蛇口を捻って、水を出す。
冷んやりと心地良い水が、両手を満たしては溢れる。
石鹸で手を洗った後、顔をバシャバシャと濡らすと、毛穴と共に、頭も引き締まる思いだった。
朧げだった記憶が、徐々に鮮明になっていく。

俺は昨日、あの女を抱いた。
飲み屋で会った女だ。
事の発端は、アスマに引き摺られて渋々参加した合コンだった。
女達は、いかにも髭熊が好きそうな、ケバくて豊満で男に媚びるような、すぐにヤれそうな女ばかりだった。
ただそんな中、明らかに数合わせで集められたに違いないという様な、地味な女が一人混ざっていたのだ。
気乗りしないもの同士、何となく会話をしていた・・・、様な気がする。

うぅん、それからどうなったんだっけ。
朝の頭を無理くりに働かせながら、タオルハンガーにかかるフェイスタオルを拝借して、顔に張り付く水滴を吸わせる。
濡れた生え際を抑えていた時、洗面台に控えめに乗っかる、細長いパッケージを見つけた。

「ねえ、」

再度ドアノブを捻ると、女は茶碗に米を装っていた。
一段と甘やかな香りが、鼻を優しく刺激する。

「コレ、使っていいやつ?」
「あ、はい、もしよかったら、と思って、」
「ありがと」

自然と口角が上がる。
浴室に引っ込むと、パッケージを縦に裂く。
中から出てきたのは、白い歯ブラシだった。
ご丁寧に、ミニサイズのハミガキまで付属してある。
キャップを回しとって、ハミガキをブラシに半分ほど捻り出す。
口に含むと、爽やかな、それでいて青臭い、ミントの香りがした。


「わあ、なんだか凄いな」
「いえ、有り合わせで申し訳ないのですが・・・。」


ソファとテーブルに挟まれたラグの上に座らされた俺は、思わずそう声を漏らした。
炊き立ての白いご飯に、蕪の葉が躍る味噌汁。
香ばしく焼かれた目刺しに海苔。
白胡麻がたっぷり振られた金平牛蒡。
鰹節と雑魚に、醤油をたらりと掛けた冷奴。
そして、胡瓜と茄子と人参の糠漬け・・・。
確かに女が謙遜しているように、手間が掛かるものでは無いのかもしれない。
しかしながら、ちゃんと暮らしている女の、朝ならではの上手な手抜き料理という感じがして、その然りげ無さが、俺の心を掴むのだった。

「いただきます。」

向かいの座布団に腰を下ろした女は、両手をきっちりと合わせて、そう言って退ける。
きっと一人で飯を食べる時も、変わらず毎度呟いているのだろう。
そんな女に習って、俺も自然と手を合わせていた。

まずは味噌汁に口を付ける。
鰹出汁の旨味が、粘膜という粘膜に染み入る様だった。
酒で荒れた胃をも、優しく包むかの様。
白いご飯は甘やかで、ちょっと固目に炊かれていて、俺好み。
千切りにされた金平は、シャキシャキと賑やかな音を立てる。
焼き海苔にちょっぴり醤油を付けて、白飯を巻いて口に放り込めば、清々しい磯の香りがした。

「カカシさん、」

モリモリと咀嚼しながら、顔を上げる。
呼び掛けた女は、箸を握ったままの手で、はにかんだ口元を隠している。

「やっぱり・・・、」
「ん?」

テーブルの方に視線を落とし、もじもじしている女を見兼ねて、俺は視線で催促する。

「食べ方が・・・、綺麗ですね。」
「そうかな?」

七味の振られたマヨネーズに潜らせた目刺しを、口に放り込みながら言う。
はい、とそう言いながら、女は続ける。

「昨夜も、ずっと思ってたんです。大きい口を開けて、一度に沢山入れるのに、すごく綺麗に召し上がる方だなあって。」

俺は思わず、声を出して笑ってしまう。

「そんなとこ見てたの?」
「はい、カカシさんみたいな人に、ご飯を食べてもらえたら幸せだろうなって、・・・」

尻窄みになった女は、顔をあからさまに紅く染めて、視線を泳がせる。
すると、目刺しの尻尾をカリカリと執拗に噛んでいた俺の脳裏に突如、昨夜の記憶が蘇ってきた。

底無しに柔らかく、温かい。
俺の芯を溶かすような、女の体温、女の感触。
その癖、一々恥ずかしがって、顔を染めては外方を向く女。
それを振り向かせるために躍起になって―――、

いかん。
朝から何を考えているんだ俺は。
卑猥な思考を打ち消すために、何気なく箸の先で挟んだ胡瓜の糠漬けを、口に放り込む。

「おいしい・・・」

思わず口から溢れた言葉に、女は顔を上げた。

「これ、手作り?」
「はい、うちの糠床で、作ってるんですよ。」
「すごいね。糠の手入れとか、大変じゃないの?」
「もう慣れましたから、それに、」

好きなんです。
そう言いながら、女は人参を前歯でパリッと噛み切る。
俺は茄子を口に入れて、噛み締めてみた。
パリパリと、愉快な歯触りのした胡瓜とは又違った、ジューシーな食感。
酸味と旨味が凝縮された味に、自然と白飯が進んだ。


残りのハミガキを歯ブラシに絞り出して、口に突っ込む。
女が食器を洗う音を聞き流しながら、俺の記憶はいよいよ明瞭になってきていた。


飲み会が盛り上がっている中心から外れた席で、女と二人、どうでも良い話をしていた。
お互いが、お互いのことは勿論、この場にいる誰にも興味が無いていで、無遠慮な会話をしていた様に思う。
少なくとも俺は。

『名前ちゃんは、どんな男がタイプなの?』
『私は、特にタイプは、無いんです。』
『何それ、ずるい。』
『うふふ。』
『強いて言えば?』
『強いて言えば・・・、そうですね、沢山、綺麗に食べる人、かな。』

そう言いながら、汗を掻いたレモンサワーのグラスを、女は傾けた。
地味だと思っていた女の上下する喉を見て、矢鱈に艶かしく感じた。

『カカシさんは?』
『俺?俺はねえ、』

同じく、びしょびしょになったウーロンハイのグラスを呷って、うーんと唸った後、頭に浮かんだことを、その儘、吐露したのだ。

『一緒に夜を過ごして、その子ん家に泊まって、朝になったら、朝食に然りげ無く糠漬けを出してくれるような子が、いいなあ。』

まあそんな女、未だ嘗て出会ったことがないけど。
嘲笑めかして言うと、女は、あの、なんて、声を発したのだ。

『私、それ、できます』
『えっ』


そんな何気ない会話が、全ての発端だったのだ。
俺はすっかり忘れていたが、女は覚えていた。
しかしながら、そんなことをおくびにも出さずに、女は俺を持て成した。
押し付けがましさとは無縁の、この旅館で貰える様なアメニティーの歯ブラシと共に。

洗面所から出ると、女はソファに座って、手鏡を見ながら、紅を引き直している所だった。

「ああ、悪いね、」
「え?」

女はきょとんとした顔を上げた。
控えめなピンクベージュの色が、肌に馴染んで、良く似合っている。

「女の子の朝は忙しいのに、洗面所、占領しちゃって。」
「ああ、いえ、とんでもないです。」
「先に出るね。」
「はい、」

ベストを着て、額当てをして、口布を引き上げる。
ホルスターを腿に装着している様も、女は興味津々という様子だった。

「忍の身支度、初めて見た?」
「あ、はい、ごめんなさい、じろじろと・・・、」
「いいよ、なんだか、俺も新鮮。」

こんなに見てくれるなんてね。
そう笑いかけると、女は又してもはにかんで、外方を向くのだった。


「ご馳走様ね、名前ちゃん。」
「いえ、何の御構いもしませんで、」
「ふふふ、」

サンダルに足を通しながら、俺は思わず笑ってしまう。
女はわざわざ、俺を玄関まで見送ってくれている。

「名前ちゃんは、ちゃんとしてるね。」
「ああ・・・、良く言われます。」

退屈な女、ですよね、
女はそう言って、自嘲気味に俯く。

「違うよ。」

女を振り向いて、その手を取る。
あっ、と女は一瞬、身を固めるのだけれど、構わなかった。
口布越しに、その手の甲に口付ける。
思った通り、糠の香ばしい、良い香りがした。

「俺は好きだよ、そういうとこ。」

頬を赤らめる女がうぶで可愛くて、その手をそっと引き寄せて、女を掻き抱く。
耳元からは、シャンプーと石鹸と、白いご飯の香り。


「俺たちはお互いに、男や女を見る目が無かったのかも知れないね。」


そう言って離れれば、女もクスリと笑いを溢した。

「また来てもいい?」

もちろん。
そう言いながら、女はにこりと笑った。

「今度は、苦瓜を漬けておきますね。」
「いいねえ。」

楽しみだな、
思うよりも先にそう呟きながら、俺はドアノブに手を掛けた。

カラッと爽快に晴れた、気持ちの良い朝の景色が広がっていた。
こんなにも充実感のある朝は、いつ振りだろうか。

行ってらっしゃい、

そんな声が聞こえて、振り返る。
青い空間に浮かぶ、玄関から入る明るさに照らされた女。
自然と、愛おしく思った。
まるで何度も、この光景を見てきたかの様に。

「ありがとね、名前ちゃん。あと、」

気持ちよかった、

そう言い放つと案の定、女はあたふたとしていた。
予想通りの顔を見て笑って、俺は扉を閉めた。


「なんだか今日は、頑張れそうだなあ、」


そんなことを独り言ちて、俺は地面を蹴った。









fin.
/20.06.26



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