茄子は天麩羅にします。


「ザーメンってさぁ、熱で固まるんだよなぁ、卵みたいにさぁ。」

運ばれてきた天津飯に、今正に蓮華を突き立てようとしていた私は、既の所で思い留まった。
クソが。
ここの天津飯の餡掛けは、私が嫌いなケチャップの味付けじゃなくて、ちゃんとした甘酢餡だというのに。
今や突然に、この大好きな餡掛けが何とも食欲を奪うルックスをしている様に見えてくるではないか。
時たまフヨフヨと浮かんでいるグリーンピース達も、それに一役買っているのかも知れない。
つい先程まで老酒でやっていた皮蛋豆腐が、喉まで迫り上がってくる様な心地だ。
我慢ならずに、蓮華を握ったままの拳を卓に振り下ろした。

「食事中になんてことを言い出すのよアンタは!このバカ!」
「お前が聞いたんじゃないの。」
「私は、今度の女とは何で別れたのかって聞いたのよ!」
「いやだからぁ、」

男はそう言うと、湯気立つツヤツヤ無傷の天津飯に、躊躇なく蓮華を刺した。
一口分を掬うと、その口の中にパクりと収める。
そして話の途中だというのに、咀嚼を決め込んで一言も話さなくなる。

私が好きで頼んだ天津飯を私自身には封じさせておいて、真っ先に匙を入れるとは。
その上、食事中の話題に下ネタをぶち込んでおいて、今更食べながら話さないマナー的なものを守っているこのチグハグさよ。
この男は私を苛つかせる天才だ。

「セックスの度に不完全燃焼だったからさぁ、シャワー浴びるついでに抜いてたんだけど、」

男は食事を無事に嚥下すると、話を続けた。

「ま、それでお風呂の排水溝詰まらせちゃって、全部バレて、追い出されたってワケ。」

男はそう締め括って猪口を煽った。
前任者との性事情は全くもって蛇足だったが、それでも空になった猪口に、徳利で老酒を注いでやった。
男はまた素直にそれを舐めた。

「割と最悪な理由ね。」
「まーね。」
「アンタん家の排水溝も詰まってんじゃないの。」
「いやぁ、自分ん家じゃわざわざ風呂場でやる理由ないでしょ。」
「ふっ最低。」

男は酒が強かったが、それにしても最近は量が多い気がする。
矢鱈とガブガブ行かれない様に、ここ最近は燗を頼むようにしている。
空になれば注いでやるけれど、注ぐ量もちょっぴり減らしている。

通りかかった店員のおばちゃんを呼び止め、燗をもう一本注文した。
彼女は黙って頷いて去っていった。
愛想はなくても飯は美味い、それが中華料理店の醍醐味だ。
ベタベタするのは好きじゃないし、安くて美味いここを私は気に入っている。
第一私にだって、店員に愛想を振り撒く余裕もない。
こいつの世話、、をするので一杯一杯なのだ。

「食べないの。」
「アンタのせいで食欲失せたわ。」
「食べられる時に食べとかないと。」

誰のせいやと思てんねんクソが。
そんなセリフが頭を過ぎるも、私は唇を動かさなかった。
コイツは未だに暗部時代の習慣が身に染み付いている。
まあ抜けてそう年月も経っていないし、無理もないのであるが。

「いつかお前の目の前で、茄子を天麩羅にしてやるからな。」
「お願いそれだけは。」

すると男は、片方の口角を僅かに釣り上げながら、そんなことを言うのだ。
長らく表情が死んでいた奴だったが、一応は回復してきているのかもしれない。

アタマがおかしくなってもおかしくないくらいの人生を、この男は送ってきた。
それを知っている私は、このバカにどうしても弱いのだ。

「他に何か食べる?」
「いや、餡掛けで飲むからいい。」
「ちょっと!私の分の餡掛けまで取らないでよね!?」
「だから食べられる時に食べとけって言ったじゃん。」
「貴様ッ!!」

はしたなくも、天津飯の頭上で蓮華バトルが勃発した。
お互いの行手を阻む陶器の蓮華同士が擦れ合って、ジリジリと鳴く。
そうこうしている内に、先程のおばちゃんが熱燗を届けにきた。

「ラストオーダー。」
「あ、もう良いです。」

低レベルな争いの模様を一切無視して頷くと、おばちゃんは卓に伝票を置いて他のテーブルを回り出した。
私はその伝票を自分の方へと引き寄せる。
その隙をついて、蓮華一杯に餡掛けを掬うことに成功した男は、またしても片方の口角で笑うのだった。



「悪いね、」
「本当にね!」

店の暖簾を潜り出て、財布をしまいながらそう吐き捨てた。
暑くもなければ寒くもない、そんな丁度良く寂れた夜を、二人して歩き出した。

恋愛に失敗しては、慰めに飯を奢り合う。
何時からか私達は、そんなことをする様になっていた。
如何せんここの所は、私が滅法カカシにご馳走している訳だが。

この男は真面じゃないが、顔だけは良いもんだからタチが悪い。
黙って突っ立ってたって、女の方から寄ってくる。
こんなデリカシーのないバカを許容できる女がいるとは、到底思えないけれど。

「ねぇ、アンタ、大丈夫?」

星のチラチラ瞬く静かな夜道を二人して歩く。
食事が済んだら、カカシが私を家まで送って解散だと決まっている。
毎度の様に断ろうとしていた時期は、最早遥か昔だ。
はたけカカシという男は飄々として見えて、実は頗る頑固なのだ。

「何が。」
「何がって、また一人になっちゃったじゃない。」

カカシのサンダルが掬った小石が飛ばされて、遠くでコロコロと音を立てた。

「別に、一人の方が慣れてる。」
「あっそ…。」

たまに設置されている街灯の光を浴びる度に、闇夜に慣れた眼を細める。
光を通り過ぎた瞬間から、私達二人分の影が、足元から先へ先へとぐんぐん伸びていく。
光から離れる毎に、私達二人の織り成す影も薄まり、また闇夜に溶けていった。

「名前は、」
「何が。」
「何がじゃなくて、お前だってまだ一人でしょ。」
「今はたまたま一人なの、たーまーたーま。」

目印の電柱が現れたので、ポケットの中から鍵を探る。

「じゃあね、送ってくれてどーも。」

そう言って、いるんだかいないんだか分かりもしない、その徹底して無に等しい気配を見遣りもせずに、私は手を振った。

道沿いに面した私のオンボロアパートは真っ暗だ。
最近では開放廊下のライトすら付かなくなった。
一般人なら恐れ慄く様な物件かも知れないが、忍の私にとってはどうってことない。
どうせ寝に来るだけなんだし、家なんて安ければ安い程良いのだ。

鍵の向きを確認して、ドアノブに差し込む。
小さな金属越しに伝ってくる、鍵穴内の金属がガリガリと形を変えていく様な感覚が、何とも言えない。
そしてドアノブを正に捻ろうとしたその瞬間。
ドンッと玄関扉を押さえ込む音と共に、男の左腕が真後ろから伸びていた。
私は思わず肩を竦ませ、両の唇の間からは「ふっ」と空気が漏れた。

「ね、なんで俺たち付き合ってないの、逆に。」

右耳の間近で突如として響いた低音は、私の全身の毛という毛を逆立たせた。
突然距離を詰めてきたのかも知れないし、ずっと後ろに張り付いていたのかも知れない。
その見当も付かないことに、私は少なからず苛立ちを覚えた。
この私の後ろを楽々と取りやがって、このバカが。
あの電柱からこちら側には踏み入って来たことがないというのに、今日は何だ。
加えて、情報量の多さから処理に時間がかかっていた先の台詞にも理解が追い付いて、私は最早怒り心頭である。

「はぁ!?」

怒りに任せて振り向けば、男の顔は目の前だった。
少し屈んで、目線の高さを私に合わせてきていることも腹立たしい。
そしてこいつは卑怯にも、わざわざ口布を人差し指で引き下げ、口元の黒子を晒しながら言う。
食事の度に、私がこの黒子を盗み見することをこの男は知らないはずだ。

「だから、俺たちが付き合っちゃった方が早くない?」
「だから!何でそうなるのよ!」
「何でって…、」

男はまるで、無垢な子ども用な仕草で、パチリパチリと瞬きを数回繰り返した。

「名前は俺が良いからずっとフリーなんじゃないの?」
「こ…っこンの自惚れ屋がァ!」

こめかみがドクドクと脈打ってきたのを自覚した時、私は遂に両手をしっかりと握って構えた。

「早くこの腕退けないと折るよ!」

少なからず戦闘の意思を示した私を見て、カカシは両眉を上げた。
その両肩からも、多少力が抜けた様に見える。

「ねえ名前、何で怒ってるの?」
「あ、アンタがこんな…、ストーカー染みたことするからでしょ!」
「あ…怖かった?ごめん。」
「は、はぁ!?私がアンタのことなんか怖い訳ないでしょ!」
「うん、ごめん。」

はい。
カカシはそう言いながら、素直に腕を下ろした。
自然体に真っ直ぐ立っている。
そんな様子を見て、私もすっかり毒気を抜かれてしまった。
力が抜けていく拳を少しずつ対側へと下ろしていく。
頭からは血が引いていく代わりに、一体私達はここで何をやっているんだという疑問が色濃く残る。

「だからね、」

男は何事もなかったかの様に、話を続ける。

「俺とお前が他所で色々やっても上手く行かないのは、俺にはお前が良くて、お前には俺が良いからなんじゃないかと思ったわけ。」
「…。」

静まり返った夜に響くのは、私の心音だけだ。
怒りの引いた身体は、血を正しく循環させる。

「アンタは私が良いの?」
「うん。だって俺、嫌いなやつとなんか一緒に飯食べないよ。」

そんなんで分かる訳ねーだろ、この頓珍漢バカが。
言葉は飲み込んだが、舌打ちは漏れた。
視線を地面に落とした時、カカシはこちらに一歩踏み込んで、私の両手を握った。
私が後退っても、男の顔はぐんぐん近付いてくる。

「ね、だから茄子は御御御付けにして。」

私の背中は、玄関扉に張り付いて動けないというのに、男は構わず距離を詰めようとする。

「風呂場の排水溝は詰まらせないようにするから。」
「アッ…!あたりまえだバカ!」

パァン

我ながら良い音が鳴ったと思った。
男がよろけた隙に、素早く玄関を開けて部屋の中に滑り込む。

「はあ、はあ、」

震える利き手はピリピリと痛み出し、熱を持ち出して痒みすら覚える。
この暗闇では確認できないが、きっと私の掌は真っ赤になっていることだろう。
男の頬には、私の手形が綺麗に残っているはずだ。
様を見ろバカ、私を驚かせた罰だ。
私は扉に寄りかかりながら、激しく上下する胸を落ち着かせようと必死だった。

「名前、」

そんな私の名を呼ぶ男のくぐもった声が、扉越しに聞こえてくる。

「名前、」

指の関節か何かを使って、扉を控えめに叩く音までする。

「ねぇ、何が?どれが当たり前なの?」

トントン、トントン。
そのささやかな振動を、私は背中で拾う。

「茄子を御御御付けにするのが?それとも排水溝を詰まらせないのが?それとも、俺たちが付き合うのが?」

トントン、トントン。
この男は私を苛つかせる天才だ。
顔に血が昇ってきて、火を吹きそうだ。
この扉があって本当に良かった。

「名前、名前、」

何か一枚隔てているくらいの距離感で丁度良かった。
そのはずなのに。
この場で私の名前を後十回呼んだならば、この扉を開けてやらないこともない。
遂に、私はそう思いはじめていた。
この頭のイカれたバカを、どの様に反省させ甚振り苦しめ甘やかそうか、私の頭は、既に考えはじめていた。










茄子は天麩羅にします。



fin.
/24.01.20.



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