「何が不服だ?」
天下一の探偵は、幼子のように首を傾げる。
彼の常人ならざる腕力で手首を掴まれたまま、しかし葵という名の女は痛がる素振りも見せず頭を振った。
「不服、などというのではなく、ただ、」
どこか困ったように眉を寄せ唇を引き結ぶ。
「だァから、この僕が良いと言っている!それで丸く収まるだろうに!」
「礼二郎はそうかもしれないけどね、」
「けどなんだ!」
はぁ、と葵はため息をつく。どうしてこの人はこう、30も半ばだというのに我慢がきかないのだろう。
「わかった、わかったよ礼二郎。しかしね、私では釣り合わない。私や貴方がどう思おうとそれは変えようがないんだ。わかるね?」
榎木津財閥は巨大だ。殊更自分を卑下するつもりはないし、この恋人とその父親が今更そんなことを気にするとも思わないけれど。
「葵は僕に相応しい!それが事実だ!」
大仰に扉を開け放ち葵を連れて歩き出す。日本人離れした長い足でずんずんと進むものだから葵は着いていくのも精一杯である。
ああもう、平民以下の生活をしていたのは自負するところだ。趣味の悪くならない程度にきらびやかなドレスを足でさばくのがどんなに大変かなんて礼二郎の知るところではないのだろう、もちろん。
控えていた使用人によって無駄にしか思えない大きさの扉が開かれる。金持ちの考えることはわからない。
「礼二郎、」
「ただいま参りました。」
常にない真面目な口調で堂々と進んでいく。
婚約のお披露目という名目で集まった客人たちのそうそうたる顔触れに緊張を押し隠す。
少しでも、榎木津礼二郎という人間の隣を歩くのにうつむいてなどいられないから。たとえ、そう。財閥の主人には聞こえぬように嘲りの声が聞こえても。
「よく来たね。」
「お招きありがとうございます。」
跳ねそうになる声をおさえる、礼二郎に相応しい人間に、
「美しいお嬢様ね」
「あの若さでずいぶん優秀らしいね」
「若すぎやしないかしら」
「奥方というよりは娘さんのようだが」
「礼二郎さんにはお似合いだわ」
"あれで家柄さえ見合えばね"
聞こえない。わかりきっていたことだから。自分をけなされる分には笑い飛ばしてやるわ。
ふいに肩を抱き寄せられた。くるりと礼二郎が人波に向き直る。見上げた笑顔は見慣れた、
すぅ、榎木津礼二郎が息を吸い込む。
くる。
「葵は僕のものだ。僕のものである以上僕に相応しい!榎木津の娘に文句があるやつはいるか、いないな!それでは僕たちはこれで失礼する!」
高らかに言い放ち、もと来た道を引き返し始める。
「ちょっと、」
これはまずいと振り返れば財閥の主人は笑いをこらえるのを失敗していた。
あっけにとられている間に会場を脱け出している。ああこれから、この大魔人と世間の橋渡しをしていくのか。もう自信がなくなった。
「葵。」
「な、に。ちょっと礼二郎、さっきのは」
「何だ?」
無邪気な瞳にのぞきこまれては文句なんか言えやしない。私もいい加減この歩く奇想天外を愛してしまっているらしい。
「何でもない、礼二郎。」
「?」
「大好き。」
ほんの一瞬、この男の呆けた顔を見られるだけで幸せだ。それからそのあとすぐ、太陽みたいに笑ってくれることも。