大判の単行本を閉じた。ぱたん、と音がする。私の好きな、音。
「面白い"物語"でした。」
滑稽な台詞。無事現実に戻ってきた自信がなかったとは言え少々残念ではある。仕方ないのだ。この作家はいつも私を強引に引きずり込む。それでも新作が出る度手にとってしまうのもまた、仕方ない。
あとがきを読むにも目が上滑りするのが判った。
しとしとと降り続く雨が私を閉じ込めているようで不安になる。私は、本の中に閉じ込められたのではないか?
「とーう。」
無意味なかけ声をかけて傘を掴み外界へ。
ぽん、と音をたてて水色が弾ける。私だけ、青空に守られているようだ。
行き交う人の影もなく、膨らむ不安感を抑えこみつつ急ぎ足。ほっとするはずのコンビニの明かりさえ今は近寄り難い。
駅が見えてきてようやく、ざわめきが聞こえ始めた。向かうは、書店。
(やぁ。やっぱり君は現実ではなかったね。)
平積みにされたソレに語りかける。勿論、声には出さない。
「葵か?」
「、はい?あ…江神、先輩。」
予期せず名前を呼ばれたせいで、大袈裟に体を揺らしてしまったのは不本意だ。
「なんや、こんな雨の日に。」
「や、それは、先輩こそ。」
「本屋はこういう日の方が静かでええんや。…それ、新刊か。」
私が凝視していたソレを手にとってページをめくる。ふぅん、と言って視線をあげた。
「買いにきたんか?よう読んでるよな、この作家の。」
「あー…はい。いつもは、人のいるところで読むんですけどね。」
何故、との問いに怖いからです、と即答する。虚をつかれたような顔はするものの馬鹿にはしない。年長だということを差し引いてもこの江神二郎という人は人間ができている。と、思う。
「たまたま部屋で読んでしまいまして。また舞台が雨の世界で。」
「あぁ、そういうことか。いつもの。」
得心した、という表情で本を戻す。長い髪がさらさらとそれに従った。
そう言えばこの人には話したことがあったか。本の世界から帰るのが難しいです、とか何とか。
「はい。なのでこうして、その本がちゃんと本として存在していることを確認しにきた次第です。」
「相変わらず面白い奴やな。」
「そんなこともないと思いますけど。」
柔らかく笑って、手に持っていた本をひらひらと振る。
「これ、買うてくるわ。特に他の用事もなくきたんやろう。」
「まぁ、情けないことに。」
情けないんか?とまた声に笑いが滲む。
すれ違い様にぽんぽん、と私の頭を軽く叩いた。
「何食べたいか考えとくんやな。」
どうせ読み耽って何も食べてないんやろう。
呆れたような響きに隠された優しさに、冷えた体の内が暖まっていくようだった。