矢崎葵、と文字を綴る。
私を二次元上に表すこの文字列を、私は何度象ったのだろう。
これは私のものである、私はこの場に居た、私がこう考えた…幾通りもの証明を、この数文字が行ってしまうのだ。
なんて、不思議。
"柳蓮二"
多分一瞥しただけで女子の文字と分かる筆跡で、一行下に書き足した。
「どうした?」
「んー?」
ふ、と静かな笑い声が聞こえた気がしたので顔をあげる。机を挟んだ柳が、開いた文庫本から目を離してこちらを見ていた。柔らかい、表情。
「どうしたの?」
「さぁな。」
先程と同じやり取りが役者を交代して繰り返された。そのくらいで不機嫌になったりはしないけれど、ほんの少し眉根が寄ってしまったかもしれない。
そんな小さな機微をしかし、見抜けない恋人ではなかった。もちろん。
「いや…見慣れた名前を二つ並べて真剣に考えているようだったのでな。」
婚姻届でも夢想しているのかと、と笑いを含んで続いた台詞にらしくもなく動揺した。冗談だなんて、考えなくても分かるのに。
物腰柔らかなこの男はいつも容易に、私を絡めとってしまう。
柳は目を見開いて固まった私を見てもう一度小さく笑って、本を片手で閉じてからそっと置いた。
この丁寧な仕草に思わず見惚れてしまう。
「それで、何を考えていたんだ?」
「ん。名前ってすごいな、って。」
あくまで穏やかに続きを促してくれるから、私は焦らずに言葉を紡げる。
「だって蓮二、これを見て何を思い浮かべる?」
「ふむ。葵と、俺、だな。」
「でしょう?」
す、とシャーペンが奪われた。
「こんな、十秒もかからずに綴ってしまえるもので、誰かを連想することができるのだもの。」
できるも何も本来その用途のために作られたものなのだろうけれど。
「確かに。」
矢崎葵、柳蓮二、と全く同じ文字を、全く違う筆跡が象った。なめらかに動く柳の手は美術品のようですらあって。文字をさして"手"と言うとは先人も見上げたものだと思う。
「やっぱり本人の字が一番しっくりくるね。」
少しばかりまるっこい柳蓮二、よりも。
流麗で達筆な矢崎葵、よりも。
本人が綴った文字が一番"らしく"見える。
「あ。だけど…」
葵はくるり、と紙を回して柳の書いた文字を正方向から眺めた。
なんか、良いね。これ。言葉が零れ落ちる。
同じように私が書いた文字を見、指でそれをなぞった柳の口の端が緩んだ。
「確かに、な。」
愛する人に己の名前を書いてもらえること。
それはまさしくその人が自分のことを考えてくれたことの、証明で。
暖かい何かが、胸に広がった。