矢崎葵。忍術学園六年い組学級委員長。
取り立てて問題を起こすこともない優等生だ。だから。
「矢崎、何をやっておる。」
「ぅおあ、びっくりしたぁ…ん、山田せんせー?」
居眠りをしていたらしい木から転げ落ち、しりもちをついてこちらを見上げる生徒。本当に優秀なのかと度々首をかしげざるをえない。
「ええと…何か…?」
「いや、用事がある訳じゃあないのだがな、こんな時間にどうした?夕食も食べておらんのだろう?」
そう問いかけるとはっとしたように周りを見渡す。おずおずと再びこちらを見上げ、苦笑いしながら立ち上がった。
成長期だというのに一年のときから食べる量がほとんど増えないのだ、と心配していた食堂のおばちゃんの声がよぎる。
なるほど身長が小さすぎるということもないのに、ずいぶんと華奢な印象だ。
「もしかしてとは思うが、」
「そのもしかして、ですね。思った以上にぼんやりしていたみたいです。」
へらりと笑う葵に山田伝蔵は首をひねった。自分の知る矢崎葵という生徒と目の前の人物が噛み合わない。
ああ、そうか。ひとり合点する。コレは、まだ大人ではなかった。
「葵。無茶苦茶やるのはかまわんが、無理は、するんじゃないぞ。」
「あは、無理してるように見えちゃいました?」
「さぁな。とりあえず疲れてはいるだろう。夕食ならおばちゃんがとっておいてくれてるだろうから、食べて休め。」
それだけ言い捨て背をむける。
優秀な人間には少なすぎるくらいの言葉がちょうど良い。その事実は自分の子育てから経験として理解していた。
「あの、先生。」
「なんだ?」
振り返り、息をのむ。
なんて、静かな。
ざわ、風がさらった黒髪は忌むべきもののように、守護するもののように、葵にまとわりついた。
「僕は、間違ってはいませんか。」
声は力強く。それでいて頼りなかった。
この年頃、この世界に生きる者でなくても不安定になる時期。
しかしだからこそ、指導者として年長者として、間違えられない時期。
「正しい答えがあると思うか、葵。」
「きっとありません。…しかし、出さなければ、なりません。」
この子は下を向かない。その事実に何故かぞくりとした。
いかなる時も視線を配り、決して隙を作らない。
そんなことが。
「…お前が考えぬいた答えならば、お前にとっては正しいのだ、なんぞと言ったら、お前は落胆するのだろうかなぁ。」
そんなことは、と呟いて眉尻を下げた。こうしてみるとなかなか年相応で、何はともなく安堵する。
「間違っているかもしれないという用心は大切で、間違えない人間などいないと、頭では分かっているつもりなのです。でも。時折、」
ぽふりと頭に手をおいた。
「ここは、箱庭だ。」
決して、生徒に言うような台詞ではないだろうが。きっとこの子にはこの言葉が必要だから。
「学園の中でくらい、たまには気を抜いても良い。ここでは先生方に守られておるのだ。」
「私達が、雛にも満たぬからでしょうか。ならば、」
「急くな、葵。お前たちには時間がある。それに私達が守るのは、」
ざあ、と風が吹く。
先とは違い、葵の髪は彼の顔から振り払われた。
「お前たちが、私達の生徒だからだよ。」
いつか巣立ち行く、愛すべき。