かたん、と音がした。
書き物をしていた手を休め、振り返る。輝く月を背に彼、鉢屋三郎が立っていた。つけている狐面はいつだったか僕が渡したものだ。月に照らされた髪は雷蔵のものとは似ても似つかない漆黒で。長く真っ直ぐなそれは静かな夜風に遊ばれていた。
「三郎、おいで。」
緩慢な動きで近寄ってきた彼は、それでもぼんやりと虚空を見つめている。
「久しいな、お前がこうして僕のところに来るのは。」
「…葵、さん…?」
「ん、僕だよ。そしてお前は鉢屋三郎だ。」
「さぶ、ろ…?」
己の名前を口の中でしばらく転がして、ようやく僕と目を合わせた。
僕が三郎の素顔を知っていることに気づいてから、彼はしばしばこうして僕を訪れるようになった。それも最近は回数が減っていたのだが。
何故三郎が素顔を隠したがるのか、はっきり問い質したことはない。
けれどこんな風に自分を見失いそうになる彼を見ても、やめろとは言えないのだ。
「三郎、三郎。面を外してごらん。」
極力刺激しないように柔らかく言えば、びくりと体を震わせる。
「大丈夫だよ。僕がここにいて、お前の存在を証明してやるからね。」
みんなみんな、お前がいなくては寂しくて仕方ないんだよ。なぁ、大丈夫だから。
気の立った獣を落ち着かせるように声をかけながら、三郎の首に手を回す。
口付けられる程近づいて瞳を覗き込んだ。
一瞬僕の視線から逃れようと揺れた目をしっかりと捉える。
「葵、さ…」
「そう、僕が葵でお前が三郎だ。」
名前を呼びながら指先に力をこめ、狐面の結び紐をほどく。
こつり、と地に落ちた面を見て、三郎は深く息をはいた。
「ごめん、ありがと…」
消え入りそうな声で囁いて幼子のようにしがみつく動作は昔から変わらない。
「構わないよ。お前が鉢屋三郎でいるためなら、僕は何だってするさ。」
可愛い後輩だからな、特別だ。
自分とどこか似た寂しさを抱える彼を、僕は強く抱きしめ返した。