意識的楽天家、とは私の好きなエッセイストの言葉だったか。
無理やりだろうとこじつけだろうと楽しんだもん勝ち、面白ければオールオッケー。失敗がなんだ、んなことじゃ死にゃしない!
そんな心持ちになったのはいつからかしら。
とりあえずめったなことじゃ死なないな、と気づいたのが確か小学校中学年。
とりあえず全てなんとかなるんだな、と気づいたのが確か小学校高学年。
嫌いなら苦手なら、そんなものは一切スルーの方向で、自分が快いという状態を最優先に求め始めた。
人間、自分以外の動向なんか気にしちゃいないんだから、好き勝手やれば良いじゃない。
更に言えば他人の失敗なんか覚えてる人間いないもの、気にする必要ないじゃない。
八方美人なのは自覚してるから、つい他人の顔色気にしてることもある。
昔の失敗思い出して、落ち込んだりすることもある。
だけど以前よりはそういう諸々を受け入れやすくなったかな。
毎日、泣いてることもあった。すごく泣き虫だから。変わったのは、泣く、という行為を過剰に意識しなくなってから。
涙をこらえもせず、大声をあげたりもしない。前向いて顔あげて肩の力を抜いて、眩きも普通にする。あくまで自然体を意識する。
するとさ、不思議なくらい落ち着いて、冷静になれる。
あれ、何で泣きたくなったんだっけ?なんて思う。泣く程悲しいことかなぁ?
そう自問すると、いや、別に。なんて答えが出たりして。
泣くのがダメなことだとは思わない。大声あげてすっきりするならそれで良いし、悲劇のヒロインになりきって自己陶酔したって構わない。
ただ、泣くことであんまり悲劇のヒロインになりきる癖がつくと、あんまり良いことはないから。涙は本当に必要なときに取っておくべきだし、はっきり言って悲劇のヒロインは絶世の美女であってかつ、そばに寄り添ってくれる完璧な王子さまでもいないと格好がつかないし。
そうやって涙は流れるままに、ってのを何回も繰り返す内に余裕がでてきた。
今は結構穏やかに過ごせてる。
あ、自己弁護のために言っとくと、自分の快さを最優先にしてるからって他人を省みないわけじゃない。
私にとって最善な状況はみんなが笑ってる、みんなが幸せな状況だから。
って言うのも、どうも自分赤ん坊並みに周囲の感情に敏感らしくて、周りの人間が悲しんでたりイラついてるのが耐えられないから。
だから「人類みな平等」みたいな高尚な考えじゃなくて、自分が幸せであるためにみんなに幸せでいて欲しいってこと。むしろ幸せであるべきだ、私の幸せの為に!
偽善ぽいのもお子様思考なのも完全な利己主義なのも承知の上で、やっぱりみんなが幸せならそれで良いじゃない。
そう思うんだ。