赤い空が藍色に染まり始めた頃、神奈は借り物の着物に着替えて襷を掛け、姐さん被りに手ぬぐいを結んで大足洗いに備えた。 神奈を連れてきた天狗は、準備万端の姿を見ると感心して何度も頷いた。
「今時の娘さんが、よく着付けもたすき掛けもできたもんだ」 「古い家なもんで」
大足が出る部屋に、天狗たちが盥に水を満たして置いていた。その脇に手拭いを数枚畳んで重ねてある。神奈はその隣に座り、手拭いを一枚手に取って大足を待った。 天狗たちはソワソワと落ち着きない様子で話し合っていたが、神奈は何しろすることがないので壁に飾ってある天狗の面を眺めたりして、口を半開きにしたままボーッとしていた。天狗の面の上にそれぞれ名前らしきものが書かれた札が貼られていたが、崩し字で書かれているためさっぱり読めなかった。
神奈の退屈した様子に気づいた天狗がひとり、隣に座って面をひとつひとつ指さしながらモデルとなった天狗の名前と住まう山とを教えた。
「ユキちゃんが勝手に持ってくから困るんだよねぇ」 「ええ?あれ勝手に持っていってたんですか?」
そのとき突然障子が勢いよく開いた。大きく開いた障子戸の間から、ぬっと大男の足が部屋に入ってきた。
現れた大足殿を見ての感想は、「きったねえなあ」の一言に尽きる。しかし汚い方が洗い甲斐があるというもの。神奈は笑いを浮かべながら腕まくりするように自分の二の腕を掴んで大足殿に近づいた。
「さあ、ご所望のメスガキが洗ってしんぜよう!この助平大足野郎めが!」 「おい!何に高揚しとるか知らんが失礼な口を利くな!守り神だといっとろうが!」
まず手桶で盥から水を上げ、足を流す。石鹸を泡立て、足の甲に乗せる。手拭いでこすると泡立てた石鹸が茶色に濁る。
「きたなっ」 「失礼な口を利くな!」 「誰だこのガキ連れてこようって言ったのは!」
大足殿が気を悪くするのではと天狗たちが危惧するほど神奈はひどい汚れが落ちていくのを面白がってうるさくはしゃいでいたが、次第に集中していき黙々と足を洗うようになった。大足の怪も不満の意を表すことなく、おとなしく洗われていた。
化け物の大男の足を丁寧に丹念に洗う若い娘の姿は、天狗たちに感嘆の息を吐かせた。右足を洗い終え乾いた手拭いで水滴を取ってやると、神奈は「左を」と大足に声をかけた。大足は右足を引っ込めて左足を突き出した。
「きったね」 「おい!小娘!いい加減にしろ!」
* 朝日が射し込み、小鳥が庭で木に刺した蜜柑をついばんでいる。生け垣に咲いた赤い花が朝露に濡れている。
セーラー服に着替えた神奈は天狗屋敷の庭に立って空を眺めていた。
「爽やかな朝だわ。無断外泊でお兄ちゃんに滅茶苦茶怒られるなんて考えたくないくらい」
ガタガタと音がしたので振り返ってみると、縁側から天狗がひとり庭に降りてくるのが見えた。神奈を学校からさらってきた天狗だ。
「どうなることやらと思ったが無事に済んだな」 「まったく人に頼んでおいて文句ばっかり言いやがって。怒鳴るくらいなら自分でやればいいじゃないの」 「このガキ……まあいい。ほれ、受け取れ」
これが礼だと言って天狗が神奈に差し出してきたのは桐の箱だった。
「大事に飾っておけ。天狗の職人の作った物など人間には到底手に入れられぬものだからな」
受け取って箱のふたを外してみると、中には鴉天狗の面が入っていた。腕の良い職人が作ったものであることが、迫力のある目から伺い知れる。まるで生きているかのような眼差しだ。
「我らが天狗一族総大将、愛宕山太郎坊大親分の面である」 「わあ……」
神奈は面をじっと見つめてため息をつくように声を出した。それから天狗の顔を見上げ、また面に視線を戻す。頬が紅潮し、口元が緩んで弧を描いている。
「わあ、わああ!すごいすごい!ありがとうございます!」 「あげた俺が言うのもなんだが、どう育てたらこんなもんで喜ぶような娘になるんだ?」
手を汚す:実際に自分で物事をする。好ましくないことに言う。 足を洗う:賤しい勤めをやめて堅気になる。悪い所行をやめてまじめになる。また、単にある職業をやめることにも言う。 (広辞苑)
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