背中に感じる彼の視線と、その奥で息衝いている私への答えに、唇を噛み締め、胸の痛みに耐えた。
 あのときの行動が、彼なりの精一杯の誠意だったのだと、今ならわかる。
 数日後、とある日曜日の午前中。遅めの朝食を摂っている私のところに、更に遅く起きてきた兄があくびを噛み殺しながら言った。
「ミキ、今日暇だったらちょっと付き合わない?」
 台風が去った後みたいな寝癖の付いた髪を掻いて兄は言う。それからやかんに水を入れて沸かし始めた。
「は? なんで? どこに?」
 兄妹でどこかに出掛けるなど、余程のことがない限りしない。私は眉根を寄せて思い切り嫌悪の表情をして聞き返した。キッチンにいる兄には私の顔が見えないらしい。気にする素振りもなくそのまま話を続ける。
「いやー、サトのやつがさ、今日カノジョを家に連れて来るんだってよ。おれもまだその子に会ったことないし、お前も気になるだろ?」
 やかんの水が温められて、しゅしゅしゅ、と小さな声を上げる。少しずつそれは大きくなって、やがてやかんの口に取り付けられた小さな空気穴から、ぴいいい、という悲鳴になって、部屋に響き渡った。コンロの火を止めるカチッという音の後に、インスタントのコーヒーの匂いがゆっくりと漂ってくる。その匂いはまるで、花が咲き、そしてこれから枯れるのだという合図のように、強く、芳醇だった。
私は手に持っていた食べかけのトーストを無理やり口に押し込んで牛乳で流し込み、席を立った。
「気になるけど私はいいや。明日提出の課題があるからやっちゃわないと」
 空になった皿を持ってキッチンの流しに置きに行く。キッチンで立ったままコーヒーを飲んでいた兄はマグカップから口を離して目を丸くした。
「お前いつからそんなに真面目になったんだ? 本当にウチの子か?」
「受験生ですから」
 怒りを込めたような声色で強めに言葉を返した。そうしないと、声が震えてしまいそうだったから。
「どんな子だったか後で教えて」
 兄に背を向けて言う。「わかったよ」と言いながら兄はテーブルの方に歩いていってリモコンを手に取り、テレビを点けていた。
 私は二階の自室に上がり、勉強机の椅子に座った。私の部屋の窓からは、斜め向かいのサト君の家の玄関が見える。レースのカーテン越しに、私はじっと、それを見つめ続けた。
 一階で洗濯機の回る音がする。リビングで兄と父が会話するような声も聞こえた。どうせいつもの通り野球の話だろう。なにがそんなに面白いのか私にはさっぱり分からない。犬の散歩をするひとが何人かサト君の家の前を通って、十二時少し前に母が私の部屋をノックした。「お昼ご飯は?」「さっきトースト食べたばかりだからいらない」。そしてそれから三十分ほど経った頃、駅のある方の角を曲がって歩いてくる、若い男女の姿が見えた。
 サト君の隣を歩く彼女は黒く長い髪を左の耳の下で結って、上品な服を着ていた。小柄で肌の色が白く、顔の輪郭は丸い。二階の窓から見ただけで判断するのは少し暴力的かもしれないけれど、私が見た限りでは美人でも不細工でもない、地味な女の子だった。


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