※ホラー
天馬が悪夢にうなされるようになってから、かれこれ数週間になる。始めはただの夢だからと気丈に振る舞っていた天馬も、いよいよ寝不足で目の下に隈ができた。
悪夢の内容はいつも同じものだった。うつくしい花畑の中心に、知らない少年とふたり座って話し込む。伽羅の香りをまとわせたその少年は出会った最初こそ天馬に酷く優しくしてくれたけれど、日を増すごとに少年の底の見えない真っ黒な瞳が天馬に寄せる視線は気味の悪さを帯びていった。少年と話すのは学校のことや、サッカーのことや、ほとんどは天馬の話題だった。少年は一切自らを語らず、それよりも天馬を深く知りたいのだとせがんだ。ひんやり冷たい少年の指が天馬の肌を這う度、言い知れない官能を幼い身体に思い起こさせた。
「つれていくからね」
いつもと変わらない天馬の夢は、ある日大きな機転をむかえる。
「……え?」
「だから、きみをつれていくからねって」
「ど、どこに」
「とても素敵な場所だよ、今でこそぼくはきみと夢の中でしか会えないけれど、そこでならいつまでもふたり一緒にいられるんだよ、きっときみも気に入ってくれるさ」
摘んだ花を器用に編んで、やっと出来上がった冠を天馬の頭へと被せて、満足そうに少年が笑う。その細められた瞳の奥に、黒い炎は怪しく揺らめいていた。
「あの、そういうの困る、すっごく困る」
「どうして」
「だっておれには大切な居場所だって、大事な人だっているから、ダメだよ、きみと一緒にそこへは行けな、」
その言葉の続きは、おどろおどろしく変貌した少年の雰囲気にのみ込まれて、儚く霧散した。ぎりぎりと腕に爪をたてられて、天馬の目尻に涙が浮かぶ。こんなにも強く誰かを恐れたことなんてなかった。ぎらつく瞳をして、少年は天馬を睨み付ける。いつの間にか黒い炎は少年の眼球をすべて覆いつくしていた。
「きみは知らないんだね、ぼくに選ばれるということがどれだけ誉れ高いことか、わかっていないんだね……」
天馬の頭上で柔らかい風に震えていたうつくしい花の冠は、その身を虐げる茨の冠となって、もう天馬を逃がさないと食いついた。これは夢なのだからいつか覚めるとは思っていても、あんまりに恐怖も痛みも鮮明に天馬に訴えかけてくる。
(つるぎ……、剣城、助けて剣城……!)
声も出せずに叫んだ名前が、天馬の悪夢を強い力で振り払った。
やっと目が覚めて、天馬は真っ先に携帯を取り出すと、震える指先で剣城の番号を押した。スピーカーの向こうから聴こえてくる剣城の言葉はなによりも優しくて、すぐに天馬の涙を引っ込めさせた。さすがにしばらく経ってから荷物をまとめて部屋にやってきた剣城には、開いた口が塞がらなくなってしまったけれど。
「数日邪魔するぞ」
天馬の涙の乾いたあとを指で拭いながら、ばつの悪そうに呟いた。そんなに大切に扱われたら、また泣きそうになってしまう。
剣城がいてくれたら、もう大丈夫。剣城のあたたかい唇を受け止めて、天馬は安堵の息を漏らす。
真の夜の闇が誰にも等しく降り注ぐこんな時間に、剣城はまだ眠れずにいる。天馬が悪夢にうなされることのないように、しっかりと見張ってやっているのだった。穏やかな寝息は少しも乱れず、天馬に安息の眠りを約束していた。つるぎ、と舌足らずに自分の名前を呼ばれて、頬がだらしなくゆるむ。
「そうか、きみがツルギか」
知らない声が聞こえた。急いで身体を起こそうとして、けれど叶わないのを知る。ベッドに張り付けられて、指一本まるで動かせない。腹の上に微かな重みを感じ、目だけをやっとそちらへ向けると、形を持たない影というか靄というか、とにかくゆらゆらと剣城の身体の上を這いずりまわっていた。
やがてそれはぼんやりと人の姿を持って、剣城の首へと確かに掌を押し当てる。
「きみがいるから、天馬がぼくと一緒に来てくれないんだよ、きみがいるから、天馬がぼくじゃなくてきみを選ぶから……」
いま、剣城のいのちはこの得体の知れない存在に握られている。そのまま力を込められたら、想像したくはないけれどそれはもう簡単に奪いとられてしまうのだろう。冷たい汗が滲んだ。嫌な緊張を孕んだ空気が、部屋に充満している。
「……剣城、どうしたの……」
うっすら目を覚ました天馬に服を引っ張られて、ようやく剣城の身体は自由になる。勢いよく起き上がって腹の辺りを確かめても、なにもありはしなかった。あれは、あれは一体なんだったのだろう。思い返すだけで尋常じゃない寒気が剣城を襲う。なにか感じるものがあったのか、天馬は静かに剣城に寄り添って、自分のぬくもりを分け与えた。険しい横顔を見上げながら、ふと首の辺りに見慣れない痣を見つける。
「天馬」
剣城の声ではない。耳元で確かに聞こえたのは、あの少年の自分を呼ぶ甘やかな響きだった。
「必ずだよ、必ず、きみをつれていくからね、待っていてくれよ、ふふ」
ひそやかに吹き込まれる虜囚の囁きに、天馬は目を見開く。わななく小さな掌を、剣城だけがここに繋ぎとめられる。どうか離さないでとすがり付く天馬を抱いて、剣城は延々と続く夜の終わりをひたすら待ち焦がれていた。
music:無間の鐘
title:にやり