なるべく音量を控えめに設定しておいたアラームにゆるやかに追いたてられて、おれは重い目蓋を開ける。手探りで枕元を荒らしていたら、やけに腹の辺りにぬくもりを感じて、恐る恐る毛布の中を覗いてみると、やっぱり熱の正体は狩屋であった。……またこいつ、性懲りもなく人のベッドに入りこんでやがった。猫のように身体を丸めておれに抱きついて眠る狩屋の、柔らかそうな頬をつねりあげる。実際触ってみると想像以上に柔らかかった、……じゃなくて。「うぎい」とどこかで聞いたことのある変な声を漏らして目をぱちくりさせたあと、寝起き特有の、舌がもつれて掠れた声で狩屋はおれに朝を告げる。せんぱい、おはようございます。それにどこかあやまちを思い起こさせる後ろめたさを感じるおれは、いよいよ狩屋に毒されかかっている。

大学に通い始めてから、ようやく念願の一人暮らしを始めた。慣れない炊事や洗濯をやっと様になるくらいにはこなせてきた頃、中学時代にとんでもなくお世話になった恩師、円堂監督から電話があった。今思い出しても、あのときの衝撃ったらない。いつも快活にものを喋っていた監督の、酷く重苦しい一言を機械越しに聞いた。
「狩屋の面倒をお前に頼みたいんだけど」
「……え、あ、はあ?」
思わず受話器を取り落としそうになった。
「いや、な、あいつのいる施設さ、今年は入所を希望してる児童が予想以上にたくさんいてな、定員もぎりぎりで、なんというか、一番年長の狩屋が」
「一番年長の狩屋が、施設を押し出されるってことですか」
「……まあ、そうなるんだよなあ」
狩屋とはおれが高校を卒業してからは一度も顔を合わせたことがなかった。狩屋、大丈夫かな。今まで暮らしてきた家をいきなり出ていかなくちゃならなくなって、きっと心細くて堪らないんだろうな。
「俺が引き取っても良かったんだけどさ、あいつそれだけはどうしても嫌がって……」
監督の家は子どもさんもいるし、それは当然だと思う。狩屋に拒否されたことに随分とショックを受けている監督は深く長い溜め息を吐いた。
「中学の時から狩屋はすごくお前になついてただろ?もう頼りになるのは霧野しかいないんだよ、俺からも頭を下げる、あいつをひとりにしないでやってくれ」
監督にここまでされたら、嫌だなんて言えない。なにより狩屋をひとりにさせるというのが、おれには我慢ならないことだった。
「……わかりました、狩屋の面倒は、おれが責任をもってみます」
「良かった!ありがとうな霧野!あいつ今年大学受験も控えてるから、暇さえあれば勉強見てやってくれよ、はは、狩屋もきっと喜ぶぞ」
「ところで狩屋はいつからこっちに来るんですか?」
「ああ、実はな、もうとっくに向かってたりして……」
よからぬタイミングでドアチャイムが鳴った。どうしよう。今に限って出たくない。出たくない。再び受話器に耳を当てると、回線はむなしく事切れていた。逃げられた、と思った。
壊れんばかりにチャイムを掻き鳴らされて、とうとうおれはやけくそ半分に扉を開け放った。スコープを覗かなくても、相手が誰だか予想はついていた。
「久しぶりですね先輩、出てくるの遅いですよ、おれとひとつしか変わらないのにもう耳がダメになってきてるんですかあ?」
大きな荷物をわきに置いて、腕を組んでふんぞり返る狩屋の頭を、取り合えずおれは思い切り叩いてやった。

狩屋と顔を向かい合わせて座る朝のテーブルの上はなかなかにショッキングだ。キャベツの油炒め、キャベツの千切り、キャベツのキャベツ巻き、キャベツの、キャベツキャベツキャベツ………。すべて夕食の残り物で、そしてもれなく担当したのは狩屋だった。
「……あのさ、今度からもうキャベツは止めにしないか」
「なんで」
「なんでって、」
「先輩が好きだって言ってたから、ずっと作ってるのに」
「おまえそれいつの話だよ」
食事当番を狩屋に任せたのはまずかったかもしれない。けれど狩屋は家のことをひとつでも自分でやると言ってきかないし、逆におれがすべてひとりでこなしてそれで気を使わせてしまうのも可哀想だ。狩屋はきっと、この家での居場所が欲しいのだ。せめて食事を作るだけで狩屋が安心できるのなら、安いものだと思う。黒焦げなのにちゃんと中まで火が通っていない不思議なキャベツを、口に運ぶまでの距離が辛い。恐らく今日の夕飯もこれだ。狩屋がうちに来てから毎日、ビタミンCばかり無駄に摂取している気がする。
「おい、なにふてくされてるんだ」
「……別に、おれ、朝刊取ってきます」
スリッパの音がリビングから遠ざかっていく。表情に出した覚えはないんだけど、敏感な狩屋には感じとるものがあったのかもしれない。扱いの難しい奴。あいつのせいでキャベツの芯を噛み砕きながら、おれは青虫にでもなった気分だ。
しばらくして戻ってきた狩屋は、新聞の他に白い封筒を持っていた。新聞をぞんざいにテーブルの上へ投げたあと、棚からハサミも取り出さずに手で封を切り出す。中に入っていたのは薄っぺらい一枚の紙だった。おれも見覚えのあるそれをじっくり眺めて、狩屋は小さく息をついた。
「模試の結果か?」
「うん、この間のやつ、……良かった、合格圏内に入ってる」
「おまえおれが教えなくても十分頭良いもんな、見せてみろよ」
おれの母校、狩屋が今現在通っている高校は、模試の結果が直接自宅に届く。親に言い逃れの出来ない、学生にとっては厄介なシステムだ。去年のおれも散々お世話になったその紙を狩屋から受け取った。
「………、おまえ、これ、第一志望おれと一緒の大学じゃないか、しかも学部まで同じだし」
狩屋はおれと目を合わせようとしない。ばつの悪そうにフローリングへ注いでいた目線を上げて、だって……、と小さく声をあげた。
「大学も先輩と一緒がいいから」
「あのなあ狩屋、高校はおれも目を瞑ったけど、さすがに大学はきちんと自分の意思で決めないとダメだ、おまえの将来に繋がる大事なことなんだぞ」
「っ、自分でもちゃんと考えました、考えて考えて、それでもやっぱりあんたの近くにいたいと思ったから、この大学に決めたんだ、これはおれの、れっきとした答えです」
「おまえの成績ならもっと良いところに行ける筈だろ、おれを基準に物事を考えるな、少し頭を冷やせ!」
「あ、あんたが卒業して残されたおれがどんな気持ちでいたか知らないくせに!知らない、くせに……」
やばい、泣かせる、と震える肩へ伸ばした手を叩かれて、涙に濡れた瞳で睨み上げられた。
ソファの上に置いてあった鞄と制服のジャケットを乱暴にひっ掴んで、どすどすとわざと強く床を踏み締めて玄関へ向かう狩屋を、おれは半ば呆然と見ている。「くたばれ!」と汚い捨て台詞と共に、重い扉は閉められた。狩屋のあんなに激しい姿を、おれは今日始めて知った。
つけっぱなしにしていたニュース番組の、左上に表示された数字が目に飛び込んできて、慌てて支度を再開する。まだ半分以上も残っているキャベツたちをタッパーに詰め込めるだけ詰め込んで、鞄へ入れた。
随分と昔に、おれは狩屋から好きだと言われたことがある。そしておれはまだ、その言葉に返事を出せずにいる。

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もれなく続きます
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