※悲恋、死ネタ
※パロディ
石畳を蹴る足はまるで羽根のように軽く、南から吹いた風と共に天馬の背を後押してくれる。両手いっぱいに抱えた花華が夜の闇に淡く光って、息を切らして走るその朱に染まった頬を照らした。月さえも雲に隠れたこの深い真の静寂の、ぴんとはりつめた空気の中でも、天馬の存在は一際強い生命のぬくもりを放っている。彼女は確固たる意思を持って、この夜に臨んだ。いとしい男に、溢れんばかりの想いをすべて伝えようと、臨んだ。自分はいつか国を背負う王女だけれど、国の為にこの身を捧げなければいけないけれど、それならばどうかせめて、せめて、一生を添い遂げるべき人はおのれの素直な気持ちに従って決めたかった。王である父も認めてくれた。恋焦がれる彼は国に忠誠を誓う敬虔な大臣の息子だった。王は少々渋い顔を見せたが、きっとふたりで国の繁栄を築いておくれと、最後には祝詞を口にしてくれた。
すべてがうまくいっている。近年の敵国の動きは鈍く、大陸は平穏そのものと言っても過言ではない。このまま争いが終わって、人の歓びと幸せに満ちた世界で、ふたり、暮らしていけたら良いのに……。いいや、きっとそうしてみせる。願いの成就はいまだ遠くても、この小さな一歩が、いつか夢見た場所へ続くと信じている。回廊を抜け、楼の最上を目指しかけ上がる階段を踏み締める足の、なんと力強いものか。
(剣城、剣城!ずっとずっと伝えたい言葉があったんだ、どうしても今、聞いて欲しい言葉があるんだ、剣城、好き、おれは剣城が好きだよ、大好きだよ……)
黒一色で塗り潰された空の下へ、足をもつらせながら天馬が踊り出る。ぴちゃりと、剥き出した素足が何かに濡れた。恐る恐る視線を下げると、床に溢された赤い水のようなものはどこまでも広がっていて、天馬にはそれがどうしてか海よりも深い底無しに思えた。網膜が色を、嗅覚が臭いをやっと認識したとき、天馬は悲鳴もあげることができずに、ただあれほど大事に抱えていた花を取り零した。横たわる身体たちの、とっくに事切れた身体たちの、ひとつひとつを知っている。幼い頃からずっと、自分を見守り助けてくれた大切な人たちが、いま、血の沼に埋もれて、生気を失った空っぽの瞳で天馬に無念を訴えかけている。
そして、その中心で、頭から爪先に至るまで真っ赤に染まったいとしい男は、剣城は、呆然と立ち尽くしていた。
夥しいほどの死体の中から、彼の父親の姿を、とうとう天馬は見つけてしまう。男はけして王や国に敬虔なだけではなかった。野心家だった。強欲だった。けれどたったひとりの息子である剣城のことを本当に愛していた。自慢の息子だと、酒の席ではいつも自分のことのように得意気に話していたのに。どうして。どうして。
「どうして……こんなこと…なんで……?」
「思い出したんだ、全部」
剣城は人の肉の脂で使いものにならなくなった剣を放り棄て、すぐ傍にあったより細身のものを手にとった。ゆっくりと歩みを進めるその先に、座り込んだまま動くことのできない天馬がいる。
「この国を滅ぼすのがおれの使命なんだ、やっと思い出した、今まで本当、何やってきたんだろうな……」
ぽつりぽつりと剣城が語り出す自身の身の上は、とても信じられないものだった。向かいの国の王の祈りに、大陸の覇者を望む欲望に、やっと応えた神が仮初めの命を授け使わした神子だなんて、冗談にしても程がある。けれど、神子として使命に倣い、この国を滅ぼすと残酷に告げる剣城の瞳のいったいどこを探しても迷いはなかった。ここで殺される。喉元に押し当てられる鋼の冷たさを感じて、天馬は目蓋を下ろす。涙が止まらない。命を孕んだ熱い雫が次々と溢れては、固い地面へ落ちて死んでいく。淡い光を放っていた花華も、憎しみの血にまみれ輝きを失っていた。
……いつまでたっても、刃が天馬を貫くことはなかった。開いた瞳の視界いっぱいに、剣城の苦悶の表情があった。
「でも、でもっ、本当は殺したくなんかなかった……!嫌なんだ、嫌だけど、どうしようもないんだ……」
剣城も天馬と同じように泣いていた。子どものように肩を震わせて、嗚咽を漏らしながら、泣いていた。その姿は自分が確かに愛していた剣城といったい何が違うというのだろう。抱き締めてあげたくて伸ばした腕を、剣城は拒絶する。血濡れたこの身体でおまえに触れることはできないと、また泣いた。
「逃げろ、やっぱり無理なんだ、どうしてもおまえだけは殺せない、逃げてくれ、ここからずっと遠く、頼む……」
愛の告白に隣り合わせたその言葉は、天馬がこころから欲しがったものだった。なのに、身体は真の底から冷えていく。慕情が憎悪へと生まれ変わる。ひとりきりになった自分に、剣城は逃げろと言う。こんなむごたらしいことがあってたまるものか。いよいよ天馬の涙は枯れ果て、濁りきった眼球を緩慢に動かし、胸元へ隠し持っていた鈍い光を見つける。この世に産まれ落ちたことを祝い授かった守り刀を、これから自らの手で穢れに浸すような真似をする。どうせ今自分が足をつけているここだって地獄なのだ。対峙するふたりが再び寄り添いあうためには、こうするしかなかった。
「剣城、剣城、ずっとずっと伝えたい言葉があったんだ、どうしても今、聞いて欲しい言葉があるんだ、剣城、好き、おれは剣城が好きだよ、大好きだよ……」
剣城の心の臓を、天馬の愛も憎悪も祈りもすべて纏った短刀が穿つ。おれもだよ、と耳元で声が聞こえた気がした。天馬は倒れ込んできた血だらけの身体を優しく受け止め、共に血に濡れた。
燃えている。城下町を、森を、空を、無情の焔はなにもかも食いつくして、なお物足りないとごうごうと叫ぶ。国は終わる。数多のいのちを道連れに、その系譜は絶える。最後にひとり残った天馬は楼の上から見渡せるすべての光景をしっかりと網膜に焼き付け、いとけき身体を宙へ投げ出した。還るべき場所へ還るだけなのに、胸が苦しくてたまらなかった。
respect:烈獅皇記〜雷哭の天子〜