※死ネタ
咳が止まらない。止まらない。小刻みに震える太陽の背中を必死になって擦りながら、もう天馬は今にだって泣き出しそうだった。太陽のいのちが日に日に磨り減っていくのがわかる。やつれた頬に僅かに残った肉を必死に持ち上げて微笑んでみせて、太陽は天馬のわななく手を取った。冷えきった掌の温度が、ふたりの終わりを加速させる。紫がかった唇が薄く開いて、天馬の名前を呼ぶ。それはあまりにか細く、こうやって息が触れ合うほど近くで身を寄せあうふたり以外には、けして聞こえない声だった。なあにと、小さく返事をする天馬に、太陽はお願いがあるんだと続けた。天馬は理解してしまう。とうとう神さまが、太陽をあの空へ連れ還ってしまうときが来たのだ。
キャスケットを深く被って、パジャマの上からジャケットを羽織っただけの変装まがいでは、きっと誰にも気付かれるだろう。けれど手を取り合って病室を抜け出したふたりは、確かにどこまでも行ける気がしていた。随分と久しぶりに踏み締めた土の上へ、太陽は一歩一歩大切そうに足を乗せていく。そうして歩みを重ねていく。お日様の光があんまり目に眩しくて、眩しくて、たまらない。たまらなくて、天馬の目尻に滴が浮かんだ。太陽の前だけでは絶対に泣かないと心に決めているから、天馬は繋いでいる方と反対の掌に、力をいっぱいに込めて握りしめて堪える。最後まで太陽が好きだと言ってくれた強い天馬でいたかった。
電車に乗って、駅をふたつ越えたら、そこが太陽が望んだ場所だ。どこまでも延々と続く、果てしのない深い青はすぐそこだった。もうすぐそこなのに、神さまは少しの時間さえ待ってはくれなかった。ついに一歩だって動けなくなってしまった太陽を抱き締めて、肩に顔を埋める。救急車なんて、とっくに間に合わない。さよならの瞬間が、ふたりの後ろで息を潜めて待っている。
「やだ、まだ早いよ、行かないで、ここにいてよ、太陽、いやだよ」
ぜえぜえと呼吸をするだけで精一杯の太陽には、とても天馬に答えるだけの余裕はなかった。
「だって、また一緒にサッカーやろうって約束した、約束したのに、太陽、太陽……!」
初めて太陽に会った日のことを思い出す。雲の隙間から差し込んだ光に照らされてきらきら輝く太陽の髪も瞳も手足もなにもかも、天馬の目蓋の裏に焼き付いて離れることはなかった。太陽が好きだ。だけど好きだけじゃ、太陽をここにずっと留めておくことができない。
「天馬」
すべての力を失ったはずの太陽の手が、天馬の背中を抱き返す。いつの間にか咳も止まっていて、なんだかとても静かな世界に、ふたりきりでいるみたいだ。
「天馬はぼくの、風だった」
さざ波の音が聞こえる。太陽が最後に天馬と一緒に見たいと言って、けれど叶わなかった海のしるしだけが残って、それだけが残って、消えない。
強い風が吹いた。太陽のいのちを押し流して、あの海を越え、いつか空へと還る風だ。
respect:祈りの彼方