深い深い地の底をもっともっと下ったところにある、冷たく暗い永遠の闇が支配する世界に、シュウはもうずっと長く暮らしている。ここは冥府。絶対の死の国。すべてのいのちがいつかたどり着くこの場所で、シュウはきまぐれに時間をもて余していた。どうせ長く続くあの道の先に待っているのは、きっとここよりも酷い苦しみを味わうことになる、地獄、とでも呼べばいいのだろうか。死んだあともろくなことにならないだろうと思っていただけに、いまいち悲観的にはなれない。それだけの悪どいことに手を染めてしまった自覚があった。いや、でも、地獄だけは勘弁してもらいたい。針山地獄も血の池地獄も名前だけ聞いたら面白そうだけれど、実際にやってみろとつき出されてしまったら、やっぱり億劫になってしまう。シュウはいつまでもここに留まり続けている。ひとっ子ひとり誰もいない。ここは冥府。絶対の死の国。そしてシュウがすがりつく、最後の悪あがき。

時間の感覚などあってないような世界のせいで、どうも頭が混乱する。とにかく人を見つけたのは久しぶりな気がしていた。木の上から見下ろしたその小さな姿が、頼りなさげに歩みを進めては、また止まる。おもむろに座ってみたかと思えば、すぐに立ち上がって、また歩いてみせる。そして止まる。自分の進む道が見えていないのだろうか。天国にも地獄にも行けないのだったら、それは望まずにこの世界に来た、迷い子の他になかった。暗闇が少しだけ晴れて、はっきりとそのかたちがわかる。癖の入った柔らかそうな髪、まだ丸みを帯びた身体、灰がかった青くうつくしい瞳、パーツのひとつひとつがシュウの記憶と重なって、嵌め込まれて、どうしようもなく一致していく。
「天馬……!」
叫ばれた名前に顔を上げるよりも、シュウの腕の中に捕らえるほうが早かった。
「天馬、てんま、久しぶり、会いたかった、ずっとずっと……!」
「あれ、うわ、シュウだ、シュウ、本当に、シュウ?またおれシュウの夢みてるの?」
抱き返してくれる天馬の体温はあたたかく、まだいのちを全うしている証拠だった。天馬がここに迷い込んだのは偶然で、自分に会いに来てくれたわけではないことに、シュウはこころの底から悲しくなってしまう。本当ならすぐにでも天馬を帰してやらなければいけない。いけないのに、シュウはほんの少しだけなら構わないはずだと、天馬の手をとって走り出す。この世界を知り尽くしたシュウは、天馬に色んなことを教えてやりたかった。ひときわ黒く大きい木の蔓にぶら下がる遊びだとか、絶えることなく神鳴り続ける光が見える丘だとか、薄く発光する桃がなる枝だとか、たくさんたくさん……。天馬も天馬でこれは夢だと思っているから、シュウに引かれるまま笑って足を動かす。仄暗い冥府も、天馬がいるだけであちこちが明るみになった。やっぱり天馬はぼくの光だ。天馬、もう二度と会えないと思ってた、どうしよう嬉しい、天馬、天馬……!繋いだ掌のぬくもりに胸がうち震える。このまま天馬と同じものになってしまいたかった。同じものになって、永遠に一緒にいられたら良かった。
「あ、これやっぱり夢なんだ、いくら走ってもぜんぜん苦しくない!」
「ふふ、天馬ったらまた足が速くなったね、ぼくのほうが追い越されそう」
「あれからシュウのこと見かけなかったから心配してたんだけど、よかった、夢の中だけでもきみは元気にやってるって、ちょっと安心した」
シュウは今どこで、なにをしているの?夢だけじゃなくて、現実のきみにも会いたいよ。天馬はそう続ける。それがどれだけシュウにとって残酷な言葉なのかも知らないで、微笑みさえ浮かべて、投げかける。
前を走っていた筈の足が急に止まって、天馬はその薄い背中に鼻をぶつけることになる。なにも言ってくれないシュウの横顔から、あまりよくないものを感じた。
「ね、ねえ、今日はなにするの、ここ暗いからサッカーはちょっとやりにくそうだよね」
そうだ、サッカーなら、いつかシュウとこころを通いあわせることのできたサッカーなら、このおかしな空気を打ち払えると、天馬は本気で思っていた。その瞬間、天馬の頭に鋭い痛みが走る。
(サッカー、あれ……おれ確かさっきまで河川敷に行く途中で……剣城や信助と一緒に約束してて……でも小さな、小さな子がボールを追って車道に出ていって、あれ……おれ危ないと思ってその子を追いかけて……車が……あ……………)
大きなクラクションの音と誰かの悲鳴が響いて鳴り止まない。それを最後に、天馬の記憶は途絶えている。
(ここって、ここってまさか…………)
「てんま」
ひどく優しい声なのに、天馬の肩はびくりと跳ねる。恐る恐る見上げたシュウは笑っていて、笑っているのに、冷たい汗が止まらなくなった。
「走って喉かわいたでしょ、水、飲むよね」
「い、いい、いらない」
「じゃあお腹空いた?これあげる、美味しいんだよ、皮剥くのがちょっと大変なんだけど……」
「シュウ、あの、おれ」
「ほら、慣れたら簡単なんだ、はい天馬」
「ねえ、聞いてよ」
「……食べて」
いけないと、本能が叫んでいた。このままだと帰れなくなると喚いていた。得体の知れないものを口元に差し出してくるシュウの瞳は、ただただおそろしい。
宛てなんてなかった。とにかく逃げなければと、そればかりを考えていた。踵を返してもと来た道を走り出す天馬の後ろで、シュウが叫ぶ。
「待って、待ってよ天馬!置いていかないで!ぼくをひとりにしないで……!」
「天馬!やっと会えたんだ!どうしてぼくから離れるの、またぼくをひとりぼっちにするの?」
「ならせめて最後にもう一度だけその顔を見せてよ、天馬、こっちを向いて、天馬ったら!」
シュウの必死の咆哮は聞いているこっちの胸が抉られるような悲痛を孕んでいて、天馬は何度も振り返りそうになる。その度にかぶりを振って、足をいっそう速く動かした。あれはシュウじゃない、シュウじゃないシュウじゃない……。無我夢中で自分に言い聞かせなければ、頭がおかしくなってしまいそうだった。走り続ける天馬は、あってはならないこの世界からいずれ弾き出されるだろう。まだ微かにでも残っているいのちを繋ぎ止めるために、その先を紡いでいくために。
(ごめん、ごめんねシュウ、おれ、きみと一緒にはまだいけない、いけないんだ、でもきっといつか、いつか)



一度たりとも振り返ることのなかった天馬の姿が闇の向こうに消えて、シュウはその場に踞る。寂しかった。この空虚を、天馬に埋めてもらいたかった。だからシュウはどこにも行かずに、ずっとここで待ち続けていたのかもしれない。
天馬が正しくこの世界に来てくれるまで、もうしばらくの我慢だ。ひっそりと傍らに咲くサブタレイニアンローズを撫でる。秘めたる恋心。花開くそのときまで、おどろおどろしい愛を胸の内で育てていく。


今日もシュウは、暗い地の底に、ひとり。



music:ハルトマンの妖怪少女
title:臍
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