夢をみている。
どうせ起きたらすぐにでも忘れてしまうようなちっぽけなもののくせに、風をきる音も、ペダルを踏む手応えも、汗でしとどに濡れる肌も、本物みたいに鮮明にオレの感覚に訴えかけてくる。長い長い坂を、もうずっと登っている気がしていた。このてっぺんになにがあるのか、オレは知らない。知らないのに、必死になってペダルをまわしている。大好きな坂だ。焦がれてやまない、生への実感がオレの足をひたすら突き動かす。けれど楽しくはなかった。きっとオレの顔は笑ってはいなかった。ケイデンスもコース取りも無茶苦茶だ。だって形振り構ってられなかった。とにかく走らなければと、そればかりを考えていた。
やっと坂を登りきったそこには、学校があった。校門に掲げてある名前は、ぼやけていてうまく見えなかったけれど、確かにここがオレの目的の場所のように思えた。早く、早く見つけてあげなきゃ。でもいったい誰を。わからない。夢っていうのはいつだってこんなものだ。曖昧で、やりたいこととやっていることが食い違っていて、なんだかうまくいかなくて……。混乱する頭でルックから降りて、ふらつきながらも自分の足で地面を踏み締めて、そのまま駆け出した。待ってて。すぐに行くから。だからまだそこにいてよ。動かないでね。すぐにだよ。もうすぐだよ。ほら、キミの小さな後ろ姿が見えてきた。抱き締めるから、つかまえるから、今すぐにでも!
「自転車!やろう!」
いきなり後ろから抱き抱えられて、あまつさえこんなこと言われて、振り返ったキミのひどく驚いた顔といったら、今となんにも変わっちゃいなかった。オレの好きなキミだ。そうだ、オレ、キミに伝えたいことがあってここまで走って来たんだ。ね、聞いてよ。オレたちのこれからの未来に関わる、大切なことだからさ。もうこれオレの夢なんだから、オレの好きにしたっていいよね。いいよね。
「オレさ、未来から来たの、すごいでしょ、キミの大好きなアニメや漫画みたいでしょ!でもほんとなんだ、夢だけど、ほんとなんだよ」
「えっ、あ、ああああの、ひええ離してくださいどちら様ですか……!」
「自転車、やろ、キミが自転車やってくれなかったら、オレたちきっと出会えなかったんだから」
途端に口ごもりだしたキミの薄っぺらい肩を抱く。でも、とか、だって、とか、そんな言葉で誤魔化さないでよ。キミの人生変えちゃうくらいの運命が、自転車にはあるんだよ。
「それでさ、またあの自販機の前で倒れててよ、必ずこうやってキミに会いに行くから、そのときにもう一度オレのこと好きになって、何度でも、オレのこと好きになって」
大きな目が更に大きく見開かれて、瞬きを繰り返す。うん、いいんだ。それでいいんだ。わけがわからなくていいよ。だってこれ夢なんだから。オレの夢に勝手に巻き込んじゃってごめんね。最後の悪あがきに、キミの額にキスをする。目覚ましの音が聞こえるんだ。これほど朝を恨んだことはないよ。さよならオレの夢の中に生きる坂道くん。さよなら。
重い目蓋を持ち上げて、けたたましく鳴る携帯のアラームを止める。一発目で起きれたのなんか初めてだ。あと、こんなに清々しい気持ちで布団を出れたのも初めてだ。
寝起きの頭でぼんやりと思う。坂道くんに会いたい。無性に、坂道くんのおでこにちゅーしたい。それで、真っ赤になった顔で困ったように見上げられたい。
キミの夢をみていた気がする。だからこんなにあったかな気持ちなのかな。
部屋の隅に置いてあるルックと目があった。窓の外は快晴だ。気分もひどく高揚している。こんな日に走らなきゃ、一体いつ走るっていうんだろう。
約束もしてないのに会いに来たって言ったら、キミはびっくりするだろうなあ。オレさ、坂道くんの驚く顔が好きだよ。オレのせいで、ころころ表情が変わる坂道くんが好きだ。
坂道くんがオレの為だけに生きてくれたらいいのに。
やっぱりあのとき、まだなにも知らないキミを後ろから抱き締めたとき、無理やりでも拐っちゃえば良かったかな。そうしたら、オレだけしかいらない坂道くんに作り替えられたかもしれないのに。夢なんだから、オレの好きなようにしていいんだから。もったいなかったなあ。
…………あれ?
music:魂こがして
title:にやり