天馬がろくに学校に来なくなって、もう随分と経ってしまったように思う。人混みにむせる教室の中で、ぽつんと取り残された天馬の机は、ひどくさみしそうだった。もしかしたら今日こそは天馬に会えるかもしれない、なんて、微かな期待を持って朝一番にこうやって教室を覗きに来るのにも、そしてことごとくそんな甘く柔らかな望みを打ち砕かれるのにも、剣城は疲れきっていた。天馬に会いたい。触れたい。ほとんどが耐え難い衝動のようなものだった。その日のうちに剣城は学校を抜け出して、木枯らし荘を訪れる。顔馴染みの秋が言うには、天馬はどうしても部屋から出てきたがらないらしい。食事もトイレも、自分はきちんとやっているからと、ドア越しにそう聞いたらしい。様子がおかしいのよと、秋は続ける。あのドアの内側にいるのは本当に天馬なのかしらと、なかなかに不気味なことを言う。試しに剣城も、喉が痛くなるくらい名前を呼んで、叩く拳の感覚がなくなるくらいノックを繰り返してはみたけれど、まるで反応がなかった。
中にいるのが天馬じゃなかったら、じゃあなんなんだよ、一体なにがいるってんだよ……。
剣城にはもう、だんだんと世界が信じられなくなってきた。ひたすら天馬を、天馬だけを望んでいた。なんだか背中がむず痒い。
自分の部屋に帰ってからも、剣城はずっと天馬のことを考え続けた。思い出の中の天馬が少しずつ薄れていくのが怖くてたまらなくて、頭を抱える。まずは声からうまく思い起こせなくなって、そこから顔と、仕草と、そうやって順を追って人を忘れていくのだと、どこかで目にした気がする。声変わりの途中のような、少女めいた天馬の甘やかな声を脳内でリフレインさせる。大丈夫。まだ大丈夫。剣城の中で、天馬は息づいている。安堵から来る細く長い呼吸を繰り返す剣城の背に、また鈍い痛みが走った。肩甲骨の辺りからだ。あんまりに煩わしくて、何度も何度もかきむしったせいで、白い肌が痛々しく腫れている。いい加減クリームでも塗ったほうが良いものかと、鏡で問題の部位を確認しようとした剣城の目に、信じられないものが映った。
黒い、真っ黒なそれは、それは、
「つるぎ」
こんこんと、誰かが窓ガラスを叩く音がした。いまは真夜中で、ここは二階で、そんなことできるわけがなくて、けれどもガラス越しに聞いた懐かしい声の正体を確かめたい一心で、剣城は恐る恐る鍵を外す。そして窓を開け放ってしまう。のと同時に、部屋の中になにかが転がり込んできた。雪のように舞い上がるそれを掴んでよくよく眺めてみれば、羽毛に似ていた。いいや、羽根そのものだった。
「剣城、会いたかった、ずっとずっと会いたかった、剣城……!」
自分を強く強く抱き締める天馬の背から、それは生まれていた。
「おれね、これが生えてから初めて空飛んだんだけど、こっち来る途中で何回も植え込みに突っ込んじゃって……、けっこう難しいもんなんだね」
笑う天馬の頬は確かに切り傷でいっぱいで、髪には枝や葉っぱが絡まっている。ひどく頭が混乱してはいるけれど、身体は正直なもので、久しぶりの天馬に震える指先で触れれば、それだけでなにもかも満たされていく。真っ白な翼は柔らかくて、ほんの少し力を込めたら痕が残ってしまいそうだった。本物だ。夢じゃない。
「今日折角うちに来てくれたのに、顔も出せなくてごめんな、ほんとはすぐにでもこうしたかったんだけど、きっと剣城はびっくりしちゃうから、………でもよかった、剣城もおれとおんなじものになってくれて、これでおれはもうひとりじゃないんだ……」
剣城の背にまわされた天馬の指が、シャツを捲り上げて、なまめかしく白い肌を這う。浮き出た骨を、ひとつずつなぞっていく。
「扉越しにわかったよ、今夜あたり剣城にもきっと生えてくるんだろうなって、だからおれ、剣城を迎えに来たんだ、初めのうちは慣れないこともたくさんあるけど、きっと大丈夫だよ、ご飯もいらなくなるしトイレも行かなくて平気になるけど、だんだん人間じゃなくなっていっちゃうけど、大丈夫だよ、おれがいるから、おれにも、剣城がいるから」
静かに床へ落ちていく天馬の白い羽根の中に、そのうち黒いものが混じってくる。剣城のは黒くてかっこいいね、なんて、月を後ろに微笑む天馬の手をとった。
もうこの町にはいられない。せめて両親や友達、特に大切な兄に、最後のあいさつをしたかった。
こんなうつくしい夜に、剣城は生まれ変わる。ひそやかに、ひめやかに、新しいいのちは生まれ落ちた。
title:にやり