御堂筋にとって名前とは今は亡き母親からもらったなによりも大切なものだった。誰にも汚させはしない、うつくしく尊いものだった。だから御堂筋は、そう易々と他人に名前を呼ばれるのを酷く嫌がった。あきらと、その響きを許せるのは、一緒に住まわせてもらっているあの優しい人たちだけだった。
反射的に飛び出た拳が、今泉の頬を直撃する。端正な顔が痛みに歪んで、なにが起こったのかまだわかっていないみたいにただ瞬きを繰り返す。
「……なんやのん、そのアホ面、キモい」
「いや、その、オレはどうして殴られたんだ」
「ボクの下の名前呼んだからや、大事な大事な名前がな、キモ泉くんのせいで汚されたんやで、そらボクも怒るわ」
「怒らせたのか、すまない、翔」
頬に強烈な一撃を受けたのに、今泉はまるで懲りてはいなかった。こめかみにうっすらと青筋を浮かべた御堂筋の、さっき食らわせたのとは反対の手が、今泉の腹を狙う。落とす。絶対に落とす。けれど繰り出した拳は、あっさりと今泉の大きな掌で受け止められてしまう。あまつさえ鳥肌がたつほど優しく優しく包み込まれて、御堂筋は小さく声を上げる。あんまりに気持ち悪くて、頭の中が真っ白になる。
「翔って、綺麗な名前だよな」
「ピギッ」
「字も響きも、どこまでもお前にぴったりで、口に出す度にオレまで気分が澄み渡っていくみたいだ」
「や、やめえよ、キモいねん、キモッキモッ、ほんまなんなんよ、馴れ馴れしく呼ぶなや!」
「だってオレたちいずれは一緒に籍を入れるんだから、今から名前呼びに慣れておかないと後々困るだろ?」
なかなかにとんでもないことを、今泉は若干顔を赤らめて言った。靄がかった御堂筋の思考の海に、今だかつて想像だにしていなかったワードが勢いよくぶちこまれる。
(一緒に、籍を、入れるぅ?)
それはつまり、なんだ、目の前のこのアホと、結婚するということか。このアホが、自分の残りの一生を幸せにしてくれるということか。
「ファ……」
翔の白無垢見たかったなあと、力なく笑った母の言葉に、応えられるのだ。こんなん誰もお嫁になんか貰ってくれんわと、誰にも頼らないで生きていけるから平気やと、強がってはひとり膝を抱えていた、あの冷たい日々は、この一瞬の為にあったのだと、今泉に拾い上げてもらう為に、ここまでずっと孤独でいたのだと、御堂筋は、御堂筋はやっと、やっと、すぐ傍にいとおしい人の心臓の音を、呼吸を、感じられると思うと、どうしようもなく、涙が、涙が、
「……かあいそうな今泉くん、こんな女に捕まってしもて、もうきっと逃げられへん、ほんま、かあいそ……」
「おい、泣くなよ、また改めてきちんとした形でプロポーズするんだから、そのときまでとっておけって」
「泣いてへんわダアホ、キミなあ、いちいち台詞がくっさいんよ、……頬痛いんやろ、無理すんなや」
「無理なんかしてない、お前と付き合っていてへこたれない男なんて、世界中を探してもオレくらいしかいないからな」
今泉に抱き上げられて、御堂筋の制服のスカートがひるがえる。もうあと数年もしたら、蛹が蝶に生まれ変わるように、御堂筋のその黒の制服は純白のドレスになって、こうして今泉に柔らかく降り注ぐのだろう。あきら、あきら。今泉は繰り返す。むず痒い響きだ。だけどそんなに悪くない。あんなにも御堂筋が憧れた家族のかたちが、いま、静かに息づき始めた。
title:ごめんねママ