顔も知らない他人の嘘が、おれの家族をめちゃくちゃにしていって、あまつさえ陰で笑っている。貶めて辱しめて、したり顔で喜んでいる。
昨日の夜からもう何度も繰り返されてきた父さんと母さんの怒鳴り合う声がようやく止んだ。耳を塞いで部屋に閉じ籠っていたおれを呼びに来た母さんの目のまわりは泣き腫らして真っ赤だった。マサキ、と呼ばれた名前の弱々しさに、おれまで涙が出そうだった。ごめんなさいね、マサキ、ごめんなさい……。ひび割れた唇の隙間からやっと溢れるその言葉だけで充分だった。続きを聞きたくなんかなかった。おれはずっとずっと、この家の子どもでいたかったんだよ、父さん、母さん……。

「お別れしに来た」
扉を開けて一番におれにそんなことを言われて、呆気にとられた天馬くんはしばらく固まっていた。それからドアノブを掴む小さな手が微かに震えて始めて、もう少し言葉を選ぶべきだったかもなんて後悔する。
「……え、なに、なんで、なんで、そんな」
「天馬くんも、もう誰かから聞いてるんでしょ、おれのところが家庭崩壊しちゃったって、おれね、施設入るの、だからお別れ」
「お別れって、だって中学も一緒に雷門に行くって、約束した、のに」
「ごめん」
天馬くんは唇を噛み締めて俯いている。いっぱいに見開かれた瞳に、水がどんどん溜まっていって、きらきら光りだす。ハンカチを持っているのを思い出して、ポケットをまさぐっている間に、天馬くんが部屋の奥に消えてしまった。とうとう愛想尽かされたかな、なんて、やりきれない気持ちで手元のハンカチを握るおれの前に、天馬くんは走って戻ってきた。あったかそうなコートとジャンパーをひとつずつと、ちょっと変なセンスの貯金箱とを腕に抱えて、帰ってきた。おもむろにジャンパーを押し付けられる。着ろ、ということだろうか。天馬くんはとっくにコートに袖を通している。そうしておれがファスナーを閉め終わるのを待たずに、貯金箱を床に叩きつけた。あっ、と驚くおれを他所に天馬くんは酷く冷静だった。散らばる小銭をかき集めて、コートのポケットに無造作に詰め込んだ。
「行こう」
天馬くんがおれの手をとって駆け出す。どたばたと煩い足音に秋さんが部屋から出てくるのにも構わないで、とにかく走って走って、あっという間に木枯らし荘は遠くなっていく。
駅の近くまで無我夢中でたどり着いてから、やっと天馬くんは足を止めた。心臓が痛い。熱い。苦しい。天馬くんは足が速いから良いんだろうけど、おれはそうじゃないんだよ。咳がなかなか落ち着かないおれの背中を擦る天馬くんが、夜に近づく夕闇に溶けそうな声で呟いた。
「逃げよう」
びっくりして咳が止まった。天馬くんの瞳を覗き込む。とても冗談を言うような色をしていなかった。
「狩屋と離れ離れになるなんて、おれは絶対いや、いやだよ、狩屋は?」
「……おれも、やだ、だけど、でも、仕方ないだろ、どうしようもないじゃんか……」
「どうにでもできるよ、狩屋の願いを、おれが叶えてあげる、狩屋がどうしたいのか、どうなりたいのか、教えてよ」
「おれは、」
細いのに柔らかい、天馬くんの指と、おれの指が、隙間も許さないくらいきつく合わさって、絡んで、お互いの温度を共有する。ほどきたくないと思った。今ここで離れてしまえば、ふたりはもう終わってしまうとさえ、確かに思った。
「天馬くんと、お別れなんかしたくない……!」
「……うん、いいよ、だから行こう」
手を繋いでいる方と反対の、握りしめた拳の中に、片道切符をそれぞれ一枚ずつ持って、電車に乗り込んだ。窓ガラスから見えるおれたちの町がゆっくりと横に流れていく。あそこらへんかなあ。よくふたりで一緒に行った商店街と、河川敷と、公園も。行儀悪く座席に膝をついて、薄い肩をふたつ並べて、ガラスの向こうの風景を指差していく。大丈夫だよ。こんなところで終わらないよ。これからもおれたち、ずっと一緒だよ。天馬くんのその言葉は、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
結局おれたちの小さな逃避行は隣町止まりで幕を閉じる。お巡りさんに連れられて、暖かい交番の中で飲むココアは冷えきった身体に甘くて美味しかったけれど、堰を切ったように大声で泣き出した天馬くんの、あの張り裂けそうな叫びが、今も忘れられずにいる。
守れなくてごめんね、狩屋、ごめんね……。なんだかおれ、朝から謝られてばかりだ。いいよ父さん、母さん。いいよ天馬くん。別れは悲しいけど、永遠じゃないんだから。それにね、天馬くんとはまた一緒にいられる気がするんだ。約束する。会いに行くよ。そのときはもう、手を離さないで良いよ。



電車内はおれたち以外に誰もいない。隣でうつらうつら船をこぐ天馬くんの頭を引き寄せる。
「まだ大分かかるから、寝てなよ、肩貸してあげる」
「んん、わかった」
おれが雷門に転校して、奇跡みたいにまた天馬くんに会えて、だけどやっぱりそんなことは長くは続かなかった。卒業したら沖縄に帰らなきゃいけないって、今度こそ本当のお別れだって、嗚咽を漏らす天馬くんの手をとって走り出すのはおれの番だった。なけなしのお金でどこまでも行けると思っていた、幼いあの頃のおれたちじゃない。足元に置いた大きな鞄が振動で震えている。
どこへ行こうか。どこへでも構わないよ。きみがいてくれたら、それだけで、それだけで……。

music:How To Go
title:ごめんねママ
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