Clover

 猫を追って





色素の濃いスカイブルーの空が広がり、その所々に羊毛のような雲が散らばっている。
私とロコを出迎えたのは、そんな空だった。


「う、わぁ……ほんと、いい天気…」


思わず呟けば、賛同するようにロコが一声鳴いた。
暫し見とれた後、首輪にリードを繋いだロコを下ろして、先程潜った家の裏口に鍵をかける。

玄関から出てもよかったのだが、今日は休みらしい母親が居間で気持ち良さそうに寝ていたから仕方ない。


(まぁ、一応メモ残して来たし……大丈夫よね)


そこまで遠くに行く訳でもないし、と内心で付け加え、鍵をポケットに滑り込ませてリードを持ち直す。
足元で大人しく待っていたロコに、「お待たせ!」と言って笑いかけた。


「じゃあ、行こっか」


尻尾を振って一際高く鳴いた黒猫に、顔が綻ぶ。
どことなくはしゃいで見えるロコの斜め後ろを、一緒に歩き出した。

今思えば、この時から既に、歯車は回り始めていたのかもしれなかった――。






 * * *




いつもの散歩コースとは違い、今日のコース選択は川沿いにしてみた。
我が家の周りは比較的人の手が入っていないところが多く、特に川の近辺は未だに砂利道が残っているせいか、人は勿論、通る車も少ない。

なんとなく、のびのびしたい今の私には最適だ。

左に川が、右に家屋や田んぼが続くのどかな風景が、歩く速度に合わせてのんびりと流れていく。
時折吹く風が心地いい。


(んー、気持ちいいなぁ……。やっぱり、散歩に出て正解ね)


道端で見つけたのか、親指ほどもありそうなバッタに草ごとパクついた先程のロコには、流石に顔が引きつったが。
猫は雑食だと知っていたけれど、実際に虫を食す場面を見てしまうと、やはり面食らってしまう。

……出来るならもう見たくない。


――ヴー、ヴ―

「あ、ちょっと待って、ロコ」


携帯のバイブ音に気付き、リードを軽く引っ張ってロコを止めた。

リードを左手に持ち替え、右手で携帯を取り出して開く。
……なんだ。なんてことはない、クラスの友達からのメールだ。

……ってちょっと待て、"なんだ"って何なの私。

いったい誰からだと……自然と浮かんできた見慣れた顔を、首を振って振り払う。
それはない、絶対ない。有り得ない。

彼方に追いやった顔の代わりと言わんばかりに携帯の画面を睨みつけ、事の発端となったメールを開く。

まったく、何なんだ。人が悠々自適にさわやかライフを送っているというのに。
もしこれで、くだらない用事だったらどうしてくれようと考えつつ、綴られた文面を目で追った私は、思わぬ知らせにゲッと小さく呻いた。


「うそ…。
明日って英語の小テストあったの…!?」


携帯片手に今日の授業を思いだそうとするが、いかんせん、ガンガンの事で頭が一杯だった事しか思い出せない。

馬鹿じゃないのか、自分。
否、確かに理科以外は平均レベルか、よくて中の心持ち上辺りでしかないが。

だからって、大事な小テストの事まで聞き逃してしまうなんて!

私の通う学校では、中間や期末の試験結果も勿論重要だが、普段の授業で行われる小テストも、成績において重視される項目なのだ。
それを落としたりしたら、ただでさえよろしくない成績が更に落ちてしまう。


(そんな事したら、またお母さんの雷が落ちちゃう…!!)


怒り狂う母親の姿を想像して、ゾクリと背筋に悪寒が走った。

成績と共に、もれなく母親の雷も落ちるってことか。全く以って笑えない。
よし、帰ろう。今すぐ帰ろう、さぁ帰ろう。

貴重な情報をくれた友達には後で返信する事にして、私は携帯を閉じて再び仕舞った。


「ごめん、ロコ……。今日はもう帰ろう?」


鳴いたロコの鳴き声がなんだか残念そうに聞こえて、申し訳なく思う。
心なしか、尻尾もダラリと下がってしまっている。

そんなロコの頭を撫で、もう一度ごめんね?と謝れば、細められた一対の瞳が私を見上げ、私の掌に頭を擦り付けた。

それが、ロコが許してくれたような証のような気がして、私は苦笑じみた笑みを浮かべた。
ここ最近、ロコにあまえてばっかりだなぁ、私……うん、明日のテストが終わったら何か買って帰ろう。


「ごめんね、今度また連れて来るから。……じゃあ、帰ろっか」


リードを握り直し、踵を返して来た道を引き返した。

行きとは違い、やや早めに歩いていく。
穏やかな景色を楽しむ心の余裕は、もう無かった。

沈んでゆく太陽が、眩い白から輝かしい橙色へと徐々に変わっていく。
その変化に焦りを覚え、近道をしようと表の車道が走る道に進路を変えた。


(えーと、小テストの範囲ってどこだったっけ?
確か、前は教科書の37ページまでだったから……)


そこまで考えた時、不意に弾んだ女の子の声が鼓膜を叩いた。


「えー?それ、本当?」

「本当だって。
てか、何?俺が嘘つくとでも?」

「そんなんじゃないけどさぁ」


聞こえてきた会話にビクリと肩が震えた。

顔を上げた先に、バスから降りて来る一組の男女。
楽しそうに、幸せそうに笑っている二人に……重なる、姿。

胸の奥で、何かが捩じれるような痛みを覚えた。


「……っ!!」


思わず、ロコを抱えてその場から逃げ出した。

横断歩道を渡り、角を曲がり、何人かの人に肩をぶつけながら平らな道を駆け抜ける。
やがて人気の少ない路地まで来てしまい、目についた薄っぺらい壁の隙間に飛び込んだ。






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