02.喪失 ( 2 / 5 ) [栞]



『あ、あの…』

――カツン


沈黙に耐え切れずに一歩踏み出せば、「あら」とどこか嬉しそうな声が返ってきた。


「よかった、目が覚めたのね」


近づいて来た小柄な人影は、あたしと然程年齢の変わらない女の子だった。
薄く紅を差した頬と対比するような白い肌を持つ、一言で言うのなら美人な娘。

左右で結われた黒髪が揺れ、琥珀色の瞳が柔らかく細められた。


「お名前を聞いてもいいかしら?
私は、チトセ。チトセ・チャルマよ」

『あ……あたしは、綾です。 冬乃 綾』


ぎこちなく笑みを作りながら、そう言ったつもりだった。

けれど、


「……?どうかしたの?」


チトセにそう言われ、一瞬戸惑った。

聞き取れない程、自分の声は小さかっただろうか。
もしかしたら聞こえなかったのかもと思い、もう一度口を開く。


『あたしの…… 』


名前は、そう言いかけてふと違和感を感じ、口を噤んだ。
……何か、何か足りないような気がする。

―――そうだ。今、自分の声が……。

そこまで思い至って、自分の考えに背筋を悪寒が這い上った。


(まさか、ね。そんな訳、ないよ)


内心で否定するも、込み上げる震えは治まらなかった。

そんな筈はない。
そんな筈、ないんだ。

心臓が早鐘のように鼓動を刻み、吐き出した吐息まで震えを帯びた。

ゴクリと唾液を飲み込み、震える左手を喉に当てる。
グッとお腹に力を込め、発声練習のように声を出そうとしたが。

声が−−出ない。


『な、なんで……っ』


間違いなくお腹に力を入れてるし、喉だって震えている。
それなのに、金魚みたいに唇がパクパクと空しく開閉するだけで、声だけが出なかった。


(どうして……っ?)

「貴女、もしかして……」


いつの間にか俯いた視界に、あたしを覗き込んで見つめるチトセの顔が映る。
彼女の琥珀 色の瞳に映るあたしは、ひどく泣きそうな顔をしていた。


「声、出ないの?」

「……っ」


その言葉が、思った以上の重量を持って、心に圧し掛かった。
チトセの視線を正面から受け止められず、彼女から目をそらして俯く。

ギュッと服の胸元を握り締める手が震えていた。

認めたくなかった。
けれど隠し通す事が出来るとは到底思えなくて、あたしは逡巡した後小さく頷いた。


「そう、なの……」


どこか寂しそうな声音に、そっと視線を向ける。

チトセは、微笑んでいた。
でも、その笑みは僅かに憂いを帯びていて。

ツキン、と心臓の奥が痛んだ。


「残念だわ……私、貴女とお話してみたかったから」


チトセの言葉に、顔を俯ける。

申し訳なかった。
でも、それ以上に彼女の表情を見ていられなかった。

ツキン、ツキン、と痛みを訴え続ける胸を押さえ、視界を閉ざす。
その闇の中で、何かが弾けた。


―――ルネアス様、またこちらにいらしたのですか……。


呆れを含んだ鈴の音のような声に振り向くと、庭園の入り口に予想通りの人物が予想通りの表情で佇んでいた。
怒りと呆れの半々を含んだ表情に、思わず笑みをこぼす。


―――あら、見つかっちゃった。【   】は、本当に私を見つけるのが上手ね。

―――"見つかっちゃった"では、ありません!軍議が嫌だからって、隠れたりなさらないで下さい。
もうじき軍議が始まりますから、早く……

―――軍議まで、まだ時間はあるでしょう?
それまでお茶しましょう? ね、【   】。


生真面目な彼女の言葉を遮り、ティーポットを持ち上げて笑みを向ける。
聞く気が無いと悟ったのか、彼女は嘆息して困ったように笑った。


―――わかりました。
でも、お茶が済みましたら軍議に出て下さいね?約束ですよ?



……そう言って、微笑んだのは誰だったのだろうか。


「…、……ぇ。……ねぇ、大丈夫?」


気が付けば、チトセが心配そうにあたしを覗き込んでいた。


(あ、れ?あたし……?)


パチパチと瞬きを繰り返し、とりあえず大丈夫だと示す為に彼女の問い掛けにコクリと頷く。
チトセはホッと息をつき、あたしの肩から手を離した。


「よかった……ぼんやりしてたみたいだけど、大丈夫そうね」


チトセの言葉に苦笑をこぼし、お詫び代わりに頭を小さく下げる。
その動作を見て、気にしないで、と彼女は笑った。

その笑みに笑顔を返した後、喉に当てたままの手を動かし、擦るように自身の喉を撫でた。

声が出なくなってしまったのはショックだし、その原因だって気になるけれど、今はこの現状を把握する方が大事だ。
それに、考えたって治るものではないし、もしかしたら時間が経てば治るかもしれない。

何よりも、考えていたらきっと気が滅入ってしまうだろうだから……今は置いておく事にしよう。



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