オルゴールは回る
−ーグルルルル……
「っ!?」
不意に聞こえた獣の唸り声に、反射的に後ろを振り返る。
いつの間に近づいたのか、茂みの前に一頭の獣がいた。
犬歯というには鋭く獰猛な牙を剥く、犬に似た獣……いや、これは。
(狼……!?)
本物を見た事がないあたしでも分かる、けれどあたしが知る"野生動物"と言うにはあまりに殺気だった姿に、一歩後ずさる。
心許ない気持ちから思わず握り締めた両手に、しかし期待した感触はなかった。
(しまった、ロッドは……!)
一時のつもりだったとはいえ、武器を手放していた事を思い出し、後悔したが既に遅い。
そのロッドはといえば、ちょうど狼とあたしの中間地点辺りに転がっている。
歩いて数歩の距離だったが、取りに戻るには位置が悪過ぎた。
今の距離でさえ、飛びかかられたら避けられるかわからないのに、自ら牙の内に飛び込むのは愚行でしかない。
どうする、どうすれば切り抜けられる?
相手は獣だ、先程のような油断を逆手に取った騙し討ちは使えない。
何より、今のあたしには武器さえない!
逃げる?いや、この距離ではまず間違いなく追いつかれる。
それに……あたしの後ろには、未だに目を覚まさない人がいるのだ。
(あたしが逃げたら、気絶してるこの人が危ない……!)
確かに目を覚まされたら困る、でも狼に襲われて死なれるよりはずっといい。
けれど哀しいかな、力加減が出来なかったのか目覚める気配はない。
どうしよう、武器があれば少しは違うのに……!
徐々に高くなる唸り声に気ばかり焦るが、これといった案も浮かばず、更に一歩後退する。
その時、視界の端にキラリと光る物を見つけ、思わず目を向けた。
見覚えがある。兵士が気を失うまで持っていた両刃の剣だ。
気を取られたのは一瞬だったが、それは紛れもない隙だった。
咆哮で我にかえった時には、地に影が踊っていた。
(っ、一か八か……!)
膝を折って頭ごと身体を沈めると同時に、剣に手をかける。
使えないかもしれない、けれど今はこれに賭ける他ない……!
首を狙っていただろう影が風と共に過ぎるのを尻目に、力を振り絞って両手で剣を持ち上げた。
重い。予想よりもずっと。
持ち上げるのがやっとで、とても振り上げる事なんて出来ないだろう。
掌に食い込む重量に歯を食いしばって、着地した狼と対峙する。
片膝はついたままだが、何とか膝の辺りまでは剣を持ち上げられた。
けれど、剣を持って立ち上がるには力も時間もなかった。
(来る!)
二度目はさほど間を置かず、飛びかかってきた。
あたしの力では剣を振る事さえ出来ない。
この重さでは避ける事さえ叶わない。
だったら……盾にするしかない!
渾身の力で持ち上げたそれを地面に突き刺し、急いで手を離す。
手と共に身を引いた直後、
−−キャイン!!
まるで犬のような鳴き声が柄の辺りで弾けた。
うまくいった!
喜ぶのも転がった体躯を確認するのさえ惜しんで、あたしは後方へ駆け出した。
剣はダメだ、あたしには使えない。
背中を晒す危険と引き換えにしてでも、この状況を打開するにはロッドが必要だった。
(お願い、届いて……!)
手を伸ばしてロッドを掴んだ刹那、三度目の咆哮。
背後に感じた濃密すぎる気配に、一瞬にして肌が粟立つ。
そして本能のままに、振り向きざま、手にした武器を力の限り振り抜いた。
一閃は過たず迫っていた獣の頭を捉え、甲高い鳴き声を残して狼が吹き飛ぶ。
あまりの勢いに目を見張ると同時に、その身体が失速する間もなく崖に叩きつけられた。
血の痕を残して無造作に落ちるその様は、まるで人形のようで現実味がなかったけれど、絶壁に刻まれた"赤"だけは生々しくその存在を主張していた。
(これ……本当にあたしが……?)
信じられない思いで、半ば呆然としながら力なく地面に転がる四肢を見つめる。
その最中、突如として獣の輪郭が形を失った。
目を疑うあたしの視線の先で、木の幹にも似た毛皮の色彩が一瞬にして色褪せる。
代わりに、狼がいたその場を満たしたのは砂の山だった。
(え……!?)
消えた?そんな、どうして。
あたしの荒い息、痺れる掌、そして崖の血痕を残して獣は跡形もなく消えてしまった。
狼の代わりに現れた砂も、やがて微かな風にさらわれて徐々に失われていく。
ロッドを持ち替え、視線を落として名残を訴える手をゆっくりと開く。
生身の肉を打つ嫌な手応えと、堅い何かを砕く感触が未だに残る掌を、あたしは茫然と見つめた。