オルゴールは回る
「ふふ、とりあえず、その服に着替えたらどうかな?私は向こうを向いてるから、ね?」
数秒逡巡した後、彼女と顔も知らないけれどマティウスさんという人の好意に甘えてコクリと頷いた。
チトセが背を向けたのを確認し、あたしも彼女に背を向けてもぞもぞと提供してもらった衣服に着替える。
不思議な事に、袖を通した衣服は多少袖の部分が長いだけで、後はピッタリだった……なんでだろう?
その袖も折る程の長さではないので、そのままにしておく事にする。
脱いだ服はシワにならないように丁寧に畳んで傍らに置き、改めて全身を見る。
暗闇に慣れた目に、ぽっかりと浮かぶ白が少しだけ眩しかったが、後は特に問題ないだろう。
「終わったかしら?」
チトセの声で、あたしはハッと我にかえった。
……ごめん、一瞬チトセの事を完全に忘れてた。
しかし、そんな事とてもじゃないが言えないので……いや、声が出ないから言いたくても言えないのだけれど、心の中でこっそり謝罪するあたし。
罪悪感に良心をチクチク痛めつつ、あたしは慌てて背を向けたままのチトセに向き直り、彼女の肩を軽く叩く。
振り返ったチトセは着替えたあたしを見て、何故か驚いたように軽く目を見開いた。
チトセの様子に小首を傾げるあたしを映した彼女の黒目がちな瞳が、不意に眩しそうに細められる。
その瞳が、あたしにはどうしてか悲しそうに見えた。
(……チトセ?)
「……本当に、貴女はあの人にそっくりね。
あの人の――ルネアス様の生まれ変わりみたい」
(ルネアス様?)
聞き覚えのある名前だった。
それは先程の幻のような何かにも、以前見た夢にも出てきた女性の名。
でも、どうしてチトセがその名前を……。
ふと、おもむろに伸ばされたチトセの手があたしの頬に触れ、あたしはビクリと身体を強張らせた。
……強張らせた?なんで?
どうして、あたしは硬直してるの?
戸惑いから?それとも、驚いた所為?
いや……違う。これは、そう、怯えに近い。
あたしは……チトセが、怖いの?
ううん……多分、チトセにじゃない。
あたしが恐れてるのはチトセじゃなくて、もっと別の何かなのだと思う。
その"何か"が、何なのかは分からないけれど。
あたし自身の不明瞭な感情に戸惑いながら、目を細めたままこちらを見つめる彼女の瞳を、ただ見つめ返す。
動く事も、目を逸らす事さえ出来ないあたしが、揺らぐ琥珀色に映っていた。
チトセは細い指をあたしの頬に添えたまま、紅を引いた唇をゆっくりと開いた。
「ねぇ、本当に覚えてないの……?」
乞うような、それでいて寂しそうな声音。
彼女の、まるで迷子にでもなった子供のような表情に、また心臓の奥がツキンと痛んだ。
悲しそうな光をたたえた瞳に、揺れる黒髪に、誰かの姿が被る。
だれ……?
見覚えはあるような気がするのに、わからない。
懸命に記憶の糸を引き寄せようとしたけれど、朧気なそれを捉える前に、残像は霧散して消えてしまった。
「……ごめんなさい、困らせちゃったね」
ほんの少しだけ間を置いて、チトセは短い眉を下げて笑い、静かにあたしの頬から手を離した。
その笑顔に、また胸の奥が痛む。
もう一度「ごめんね」と言った彼女に、フルフルと首を横に振る。
悪いのはチトセではない。
きっと、思い出せないあたしの方だ。
チトセの話から考えると、あたしは恐らく、あのルネアスという人の転生した存在なんだと思う。
今まで見てきた夢の中には、殆どと言っていいほど彼女が出ていたし、何より夢の中のあたしは彼女の目から世界を見ていたのだから。
それに、此処にいるのも、経緯は不明だけど、転生者だったから連行されたのだと考えれば、筋は通る。
……だと言うのに、どうしてあたしは"彼女"の名前すら思い出せないのだろう。
チトセに申し訳ない。
思い出せない自分が情けない。
考えだしたらどんどん考えが沈んでしまい、肩を落とすあたしにチトセは優しく微笑んだ。
「そんなに気にしないで。
大丈夫。きっと、時が解決してくれるから。
だから、そんな顔しないで。ね?」
励ましてくれるチトセの姿に、そうだといいなと思わずにはいられなかった。
あたしの前世がルネアスって人で、彼女の記憶を全て持っているのならば、思い出してあげたい。
それで、チトセがあんな寂しそうな表情をしなくて済むのなら。
(思い、出したいなぁ……)
そう、強く思った。